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サッカー場の地下で2000年前の古代ローマ兵士の集団墓地が発見される

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(著) (編集)

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 ウィーンのサッカー場の地下で発見されたローマ時代の集団墓地 image credit:A. Slonek/Novetus
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 怪談には少し早いが、オーストリアの首都ウィーン郊外のサッカー場の改修工事中にちょっとホラーな、だが考古学的には貴重な発見があった。

 サッカー場の地下から出土したのは、1世紀のローマ帝国時代に戦死した若い兵士たちの大量の遺骨が埋まった集団墓地だった。

 この集団墓地は1世紀頃のもので、その遺体は現在確認されただけで129体から150体に至り、実際にはもっとたくさん埋まっているという。

ローマ帝国が侵略した重要な前哨地

  実はウィーンという地名の起源は、もともとここにあったケルト人の集落「ウィンドボナ(Vindobona)」に由来する。ローマ人が侵略の際にその名を引き継ぎウィーンと呼ばれるようになったという。

 ローマ帝国の境界線であったドナウ川沿いにはいくつもの駐屯地が設けられていたが、ウィンドボナは中でも最大級のものでローマ帝国の重要な前哨地だった。

 最盛期には1万6000人から2万人が居住していたという。

 なお最近の研究によると、ローマ帝国の人々の多くは白人ではなかったこともわかっている。

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ローマ帝国支配時代の前哨地だったウィンドボナ(現在のウィーン) History of Vienna

サッカー場の下から大量のローマ兵士の遺骨

 2024年10月、ウィーンのシメリンク地区にあるサッカー場で改修工事が行われた時、大量の遺骨が発見された。

 出土した集団墓地は約5m×4.5mの広さで、深さは最大0.5m。そこには複数の遺体が手足を絡ませるように無造作に重なっていた。

 丁寧な埋葬とはほど遠い、時間のない中で急いで土に埋められたことを物語っている。

 すぐさま専門家が調査に入り、最初に129体から150体の遺体が確認されたが、まだ発掘されていない遺体も多く残されているという。

 遺体のほとんどが20~30代のローマ軍の兵士で、身長は170cm前後と、当時としては高身長だった。栄養状態も良好で、病気の痕跡もほとんど見られなかった。

 しかし全ての遺骨において、死の直前に受けた外傷が確認されている。遺骨には、致命傷になったと思われる槍・剣・短剣・矢などの傷跡が残されていた。

 これは処刑ではなく戦闘による死であることを裏付けている。

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 頭蓋骨に残された武器による傷跡 image credit:S. Strang/Novetus

1世紀頃の戦死したローマ兵の集団墓地

 放射性炭素年代測定(Carbon-14分析)により、この集団墓地は西暦80年から130年の間と判明。さらに現場からはローマ軍の装備品が複数発見されており、時代の特定に役立っている。

 遺骨とともに発見されたのは、銀の装飾が施された短剣、鎧の一部、兜の頬当て、軍用サンダル「カリガエ」の鋲などだ。

 これらはローマ軍兵士が装備していた標準的な軍需品であり、まぎれもない戦場の遺物である。

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遺骨とともに発見された鎧の鱗  image credit:L. Hilzensauer, Wien Museum

 工事現場の作業員が驚いたのは当然だが、考古学者もにわかには信じられなかったようだ。

 というのも、4世紀以前のローマでは火葬が一般的で、土葬は行われていなかったからだ。そのため、当時の遺体は滅多なことでは残らないのだ。

 ウィーンの考古学部門の責任者クリスティーナ・アドラー=ヴェルフル氏は、同市のプレスリリースでこう説明する。

ローマ帝国には厳格な葬儀の風習があり、死後に従うべき細かい規範までありました

100年頃、ローマ帝国のヨーロッパ地域では火葬が一般的で、土葬は異例です。ですから、この時期のローマ人の遺骸が見つかることは滅多にありません(ヴェルフル氏)

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サッカー場の下から発掘された大量のローマ兵の遺骨 image credit: A. Slonek/Novetus

ゲルマン人との戦闘を裏付ける初の証拠

 この大量の戦死者の背景として最も有力視されているのが、西暦86~96年に、ドミティアヌス帝(在位81~96年)が指揮した「ドナウ戦争」だ。

 この時期、ローマ軍はドナウ川を北の国境線として、ゲルマン民族との激しい戦闘を繰り広げていた。

 ゲルマン人は古代から中世初期にかけて中央ヨーロッパからスカンジナビアにかけて居住した民族集団だ。

 葬儀の儀式が行われず、火葬も施されていないことから、ローマ軍が敗北して埋葬の余裕すらなかったという現場の緊迫感がうかがえる。

 これらの戦闘が契機となり、数年ののちに即位したトラヤヌス帝(在位98~117年)は、ウィンドボナ周辺の要塞化を進め、ドナウ国境の防衛体制を強化するにいたった。

 歴史記録には、当時の戦闘でローマ軍の部隊が壊滅的な損害を受けたことが記されている。

 考古学者マルティン・モッサー氏によると、サッカー場で発見された大量の遺骨は、この時期に戦闘が行われたことを示す初めての物理的な証拠であるという。

 考古学者は、今後さらに墓地の発掘を進めるとともに、DNA解析や同位体分析なども実施し、当時のローマ兵たちの実像に迫る予定であるとのことだ。

References: Römischer Sensationsfund in Simmering - Presse-Service / Archaeologymag

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この記事へのコメント 10件

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  1. サムネの写真左側のものが「青い服と白いスカートの女性が地面に寝転んでいる様」に見えてしまった…。
    その後に記事内容読んで、荷物とか道具とかの見間違いだって気づいた。

    • 評価
    1. 別の配信記事では、多くの遺体は装飾品を着けておらずはぎ取られていたとなっていたから戦死者の装備品は回収して埋葬したんじゃないかと思う。
      当時の武器や装備品は全て手作りなので一度失うと簡単には補充がきかないので使える装備は全て剥ぎ取って回収して使いまわしてると思う。
      今回見つかった鎧の一部や短剣も急いで剥ぎ取った結果取りこぼした物が見つかったのではなかろうか。

      • +5
  2. ローマ軍が負けたのなら戦場で遺体を回収する余裕もなかっただろうから遺体を埋めたのはゲルマン人じゃないかな。雑だったり装備がないことの説明も付く。

    • +2
    1. ルートされただけの可能性もあるとは思う
      占領ではなく破壊を目的とした遠征だったとか

      • 評価
  3. 当時のローマ軍の構成員は、ゲルマン人騎兵やガリア人歩兵などいろいろいたようだが、(軍功を積むと元老院議員になれるという法律を作ったせいで、元老院にはローマ語を理解しない議員がたくさんいた という記録が残っている)
    人種や習俗によって「火葬は嫌だ」ということもあったのだろうか

    • +2
  4. 170cmだと当時のローマ人としては長身の部類。
    ローマ側のゲルマン人傭兵かな。

    • +1
  5. ララ・クロフト 「あらあら、パンドラの箱を開けてしまったのね。」 💀

    • -1
  6. 『SC Mautner Markhof』のサッカー場かな?

    • 評価
  7. 歴史的に貴重ではあっても、サッカー場の改修工事はいつ終わるんだろうか、と選手やファン達は思ってるだろうな。

    • 評価
  8. 当時の戦闘では、両軍に多数の死者が出るはず。ここに埋められたのがローマ兵ということは、相手軍(ゲルマン?)の兵士の遺体は、相手軍が持ち帰ったのだろうか?

    • 評価

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