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18世紀のロンドンに実在した謎の巨大人工丘。正体不明のまま消滅

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ロンドンの「ホワイトチャペル・マウント」(1801年)Image credit:public domain / Wikimedia
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 18世紀のイングランド・ロンドン東部には、「ホワイトチャペル・マウント」と呼ばれる巨大な人工の丘が実在した。

 ペスト犠牲者の墓地、ロンドン大火の瓦礫、イングランド内戦の砦、巨大なゴミの山など、様々な説はあるものの、明確な正体はわかっていない。

 ロンドンの激動の歴史と共にあったこの丘は、土地売却のため、跡形もなく消え去った。

 ホワイトチャペル・マウントは、ロンドン史上、最も不可解な歴史上の未解決ミステリーとなっている。

参考文献:

18世紀のロンドンにそびえ立つ、謎の巨大人工丘

 18世紀、ロンドンのイーストエンドには、不自然にそびえ立つ奇妙な丘が存在した。

 「ホワイトチャペル・マウント」と呼ばれたこの丘は、1753年に、すぐ隣に建てられたロンドン病院の建物よりも高かったと伝えられている。

 イギリスの古物研究家・歴史家であるダニエル・ライソンズは、著書『ロンドン周辺(The Environs of London)』の1811年補遺版において、この人工丘のサイズを長さ:約100m、幅:約55m、高さ7.6m以上と記している。

 斜面には木々が茂り、頂上には小さな建物が建てられていた。

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1753年に建てられたロンドン病院。右側にはそれよりも高い人工丘「「ホワイトチャペル・マウント」が描かれている。(1753年頃の版画) Image credit: Wellcome Collection gallery (2018-04-05) / commons.wikimedia / CC BY 4.0

 当時の地図にも名所として記されており、訪れた人々は丘に登って街並みやテムズ川の風景を楽しんでいた。

 巨大な丘はほぼ確実に人工的に作られたものだった。

 しかし、平坦な都市の真ん中にこれほどの丘がどうやって形成されたのか、明確な理由は今もわかっていない。

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1755年、イギリスの地図作成者、リチャード・ブロームによって描かれた人工丘「ホワイトチャペル・マウント」、右側はロンドン病院。public domain / Wikimedia

誰が何のために作ったのか?乱立する様々な説

 ホワイトチャペル・マウントは誰が何の目的で作ったのだろう?主に4つの説が有名である。

ゴミの集積場説

 最も有力視されているのは、丘が巨大なゴミの集積場だったという説だ。

 1671年の法令で、ロンドン市は市内7か所をゴミの集積場に指定し、ホワイトチャペルもその一つに選ばれていた。

 人間の排泄物や道路の掃き溜め、家庭ゴミなどが長年にわたって蓄積し、巨大な人工の丘が形成されたというのだ。

 特に家庭ゴミに含まれる石炭の灰はレンガ造りの貴重な材料であり、1809年の裁判記録には、削られて縮んでいくホワイトチャペル・マウントからレンガが各所へ納入されていたことが記されている。

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19世紀のロンドンのキングス・クロスにあった市営のゴミ集積場 public domain / Wikimedia

ロンドン大火の瓦礫説

 もう一つの有力な説は、1666年の「ロンドン大火」の瓦礫によって作られたというものだ。

 中世の街を焼き尽くした大火災は膨大な瓦礫を生み出し、当時のロンドン市はその処分に追われていた。

 大量の残骸が東部へ運ばれて投棄され、丘の形成に大きく寄与したのではないかと歴史家たちは推測している。

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ロンドン大火 Image credit:public domain / Wikimedia

ペストの集団墓地説

 最も物議を醸しているのが、1665年の「ロンドンの大疫病」による、ペストの犠牲者を埋めた集団墓地だったという説だ。

 伝承によれば、ホワイトチャペル地域には巨大な埋葬用の穴があったとされている。

 ロンドン大火の後、ペストの穴を隠すために火災の瓦礫が上から被せられたという。

 著述家であり治安判事のジョゼフ・モーザー氏は、1802年の夏、丘の一部が削り取られた際に断面を検分したところ、地層の中に大量の人骨や動物の骨、レンガなどがあったと書き残している。

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ロンドンの大疫病の際、ペストで死亡した人々を埋めた穴 public domain / Wikimedia

イングランド内戦の遺構説

 さらに、1640年代の「イングランド内戦」で作られた防衛陣地の跡だとする説もある。

 議会派は王党派の攻撃から市を守るため、ロンドンの周囲に約24の土塁や砦を構築した。

 当時の旅行家の日記にもホワイトチャペルに大砲を備えた砦があったと記されている。

 内戦後に農地回復のために防衛施設は撤去されたため、丘が砦であったという明確な証拠は見つかっていない。

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イングランド内戦時代、ロンドンは要塞化されていた。2番砦(右上)は、マウントの起源であると言われている。public domain / Wikimedia

ホワイトチャペル・マウントは都市開発で消滅

 正体不明のホワイトチャペル・マウントは、様々な都市伝説を生み出し、ロンドンの有名なランドマークとして親しまれた。

 しかし19世紀に入ってロンドンが拡大し、イーストエンドの都市開発が進むと、土地の価値は急激に高騰した。

 ロンドン市は丘の土砂を売却することを決め、1807年から1808年にかけて巨大な丘は削り取られて消滅した。

 丘が取り壊される際、地域住民たちが群がり、ローマ時代の硬貨や銀のジョッキなどが発掘されたと伝えられている。

 ロンドン大火で焼け落ちた宿屋に飾られていたとされるイノシシの彫刻も見つかったとされ、大火の瓦礫説に真実味を持たせた。

 近年の周辺の発掘調査では、内戦時代の防衛線と一致する17世紀の堀の跡が見つかったが、その後の調査では防御施設の証拠は出ていない。

未だその正体は不明なまま

 ホワイトチャペル・マウントは、もしかしたら単一の出来事で作られたわけではないかもしれない。

 墓地、ゴミ捨て場、大火の瓦礫、軍事施設といったロンドンの激動の歴史が、何百年も地層のように積み重なってできたものなのかもしれない。

 ホワイトチャペル・マウントから運び出された土はレンガに焼かれ、街の建物の一部になった。

 丘を掘って正体を確かめる機会は永久に失われた。

 かつては人々の頭上にそびえ立っていた巨大な丘は、その存在を知る人すらほとんどいないまま、ロンドンの歴史の影に消えていったのだ。

References: Archaeologydataservice.ac.uk / Archaeologydataservice.ac.uk

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