この画像を大きなサイズで見る1870年、アメリカ・ニューヨーク市の地下に、政府の目を盗んでできた秘密の地下鉄が存在した。
発明家アルフレッド・イーライ・ビーチが、虚偽の申請書を市に提出し、わずか58日間で約90mのトンネルを掘り上げたのだ。
シャンデリアが輝き、グランドピアノが鎮座する豪華な地下駅は、公開まもなく利用客40万人のにぎわいを見せ、未来のシンボルとして市民を熱狂させた。
だがその成功は長くは続かず、腐敗した権力者との長きにわたる戦いと突然の経済恐慌により封鎖の運びとなる。
その存在が再び世に知られるのは、40年以上も後のことだった。
人口が膨れ上がったニューヨークの街
1850年代から60年代にかけて、ニューヨーク市の人口は50万人から100万人へと倍増し、交通インフラがまったく追いつけない状態だった。
泥だらけのブロードウェイには手押し車、馬車、「オムニバス」の呼称で親しまれた大型乗合馬車、さらには家畜が溢れ、徒歩で通勤する人々はそれらをかき分けて進むしかなかった。
交通改革として地下鉄を思いついた発明家
混乱した街の交通を変えようとしたのが、科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン(Scientific American)』の共同オーナーで、トーマス・エジソンやアレクサンダー・グラハム・ベルの特許取得を支援した発明家・実業家、アルフレッド・イーライ・ビーチだ。
この画像を大きなサイズで見る1849年、ビーチはすでに自身の雑誌に「ブロードウェイの地下鉄道」と題した記事を書き、地下に鉄道を走らせるアイデアを明かしていた。
ところが現実は厳しく、実現までに20年以上を要することとなる。
夢に突き進もうとするビーチの行く手を阻んだのは、技術の問題ではなく、街を長年支配する腐敗した政治組織だった。
ニューヨークを牛耳った腐敗組織の正体
当時この市を実質的に支配していたのは、「タマニー・ホール」と呼ばれる政治組織だ。
タマニー・ホールは、移民や労働者層への支援と引き換えに票を集め、見返りとして利権を独占する組織だった。
その指導者、ウィリアム・M・「ボス」トウィードは、表向きは労働者の味方のふりをしながら、裏では馬車やオムニバスといった既存の交通手段の利益を組織のふところに入れ続けていた。
その独占ぶりはほぼ公認で、1860年にニューヨーク・タイムズが痛烈に批判するほど市民からの搾取は組織的かつ露骨なものだったという。
そんな腐った組織にビーチがふつうに地下鉄の建設許可を申請したとて認められるわけがない。
すでにある交通手段で儲けてるタマニー・ホールが今までにない地下鉄の普及など認めるわけがなかった。
虚偽の申請で掘り始めた秘密のトンネル
正面突破をあきらめたビーチは、「郵便物を運ぶための小型空気圧輸送管を設置する」という名目で掘削許可を取得し、1869年に工事を開始した。
作業はすべて夜間に行われた。地上に影響しないよう、掘削には「トンネルシールド」と呼ばれる円筒形の鉄製の枠組みを使い、土砂が崩れないよう常に内側から支えて、少しずつ地下を削り進めた。
掘り出した土砂は近くの商店の地下室を借り、こっそり運び出した。
作業員たちはコンパスと測量器具で方角を確認し、ときには鉄の棒を地上へ突き上げて位置を確かめつつ、黙々と暗闇の中で掘り続けた。
ビーチ自身も、頭上にある馬車や人々が行き交うブロードウェイの路面がいつ崩れてくるかと冷や汗をかきながら作業を見守り続けたという。
この画像を大きなサイズで見るわずか58日間でトンネルが完成
なお当時、空気圧で”物”を運ぶ技術は、イギリスですでに実証済みだった。
イギリスの電気工学者ジョサイア・ラティマー・クラークが、1853年にロンドン証券取引所と電信会社の間に約200mの空気圧輸送管システムを設置し、加圧された空気の力で手紙や小包を運ぶことに成功していたのだ。
ビーチはこの技術を”人間の輸送”に応用できると確信し、1867年の時点で模型を使った実演まで行っていた。
かくして試行錯誤の末、ビーチが夢見たトンネルはわずか58日間で完成した。
直径約2.4m、長さ約90mの円形トンネルが、マンハッタン南部のウォーレン・ストリートからマレー・ストリートまで、ブロードウェイの地下をひそかに貫いた。
建設費の35万ドル(現在の価値で約12億円相当)はすべてビーチ自身が負担した。
この画像を大きなサイズで見るシャンデリアとグランドピアノが鎮座する豪華な駅
1870年2月、ビーチはついに秘密のプロジェクトを市民に公開した。
薄暗い地下トンネルを想像していた来場者の目に飛び込んできたのは、シャンデリアが輝き、グランドピアノが置かれ、金魚が泳ぐ噴水まで備えた豪華な駅だった。
22人乗りのクッション付き座席を備えた客車は、大型の送風機が生み出す空気圧によって押し出され、終点に着くと送風機の向きを逆転させることで元の駅へと引き戻された。
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この画像を大きなサイズで見る乗車料金は1回25セント(2016年時点の換算で約10ドル相当)。初年度だけで40万人が乗車し、ニューヨーク市民は地下交通の未来に熱狂した。
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この画像を大きなサイズで見る一方タマニー・ホールは、地下鉄が広まれば交通労働者が路頭に迷う、という相変わらずの主張をひたすら繰り返し、路線の延伸を認めようとしなかった。
夢を打ち砕いた1873年の経済恐慌
ビーチはニューヨーク州議会に対し、セントラル・パークまで約8kmの路線を延伸する法案を提出し、タマニー・ホールと2年以上戦い続け、1873年にようやく法案を可決させることに成功した。
しかしその年、戦争や火災、地上鉄道への過剰投資により、銀行が貸し出せる資金を使い果たしたことがきっかけで、「1873年恐慌」がアメリカ全土を直撃した。
その深刻な経済的大混乱で、ニューヨーク市も壊滅的な打撃を受けた。
投資家たちは次々と手を引き、やっと延伸の許可を得たビーチも工事資金を失い、セントラル・パークまで地下鉄を走らせるという野望は潰えた。注目の的だったトンネルも封鎖され、やがて人々の記憶から消えていった。
40年後に掘り当てられた地下の記憶
1912年、ニューヨーク市でBMT地下鉄(Brooklyn–Manhattan Transit、ブルックリン・マンハッタン路線)の工事中、作業員たちがブロードウェイの地下で古いトンネルを偶然発見した。
この画像を大きなサイズで見る封鎖から40年近くが経過していたにもかかわらず、グランドピアノも客車もほぼそのままの状態で保たれていたという。
その小さなトンネルは、この都市に本格的な地下鉄が開通する34年も前から、未来の交通手段の可能性を示していた。
この画像を大きなサイズで見るBMT工事によってその大部分は取り壊されたが、ビーチが夢見た地下交通の構想は、その後にできたニューヨーク市地下鉄に引き継がれた。
結果としては失敗に終わったものの、政治の腐敗と経済の荒波に飲み込まれたビーチの野望は形を変え、今のニューヨークの地下交通を支えて続けている。
References: Popularmechanics / Ja.mcny.org / Wikipedia
















初代ロックマンエグゼかな?
> タマニー・ホールは、移民や労働者層への支援と引き換えに票を集め、見返りとして利権を独占する組織だった。
日本にもリベラルがいる