この画像を大きなサイズで見る生きていれば悩みはつきもの。しかし、我々は時として、自分で自分自身を過度に傷つけてしまうことがある。
そんな心の癖をなくすことができれば、人生というイバラの道も少しは歩きやすくなるかもしれない。
西洋の心理学と東洋の霊的実践法(spiritual practices)の両方を学び研究し、指導しているタラ・ブラーシュ博士は、すべてを抱えこみ、自分自身を傷つけてしまう人へのアドバイスをしてくれた。
もし我々が自分自身を攻撃するなら、この人生を愛することなどできない。まずは自分を自分で愛するよう心がけよう。
この画像を大きなサイズで見る自分自身に対する攻撃は、私たちを縮こまらせ、悪い方向へと導く。一日中、「自分はダメだ」という感覚を抱えつつ過ごすことになる。その感覚は、人生を楽しむという能力に影響を及ぼしてしまうのだ。
「自己非難」という2本目の矢
仏教の教えでは、仏陀は2本の矢の説明をした。最初の矢は、人間という動物の内部に起こる自然な感情。例えば、恐怖、攻撃性、欲望、切望など。
2本目の矢は、最初の矢で表されるような感情を持った、という事実に対する自己嫌悪だ。誰しも意地悪でワガママな感情を抱くことはあるが、そんな自分を過度に嫌悪してまうのだ。
「最初の矢で傷ついているのに、なぜ自分に向けて2本目の矢を射るのか?」と仏陀はいう。「人生では常に最初の矢をコントロールできるわけではない。しかし、第2の矢は最初の矢に対する反応なのだ。これは選択することができる」
この画像を大きなサイズで見る思いやりを持って最初の矢に対処するためには、まず最初に、私たちの内面で起こっていることは生存に必要なことの一部なのだと理解しなければならない。
それは人間であることの一部で、私たち自身のせいではない。
だが自分を責める習慣のあるあなたなら今、こう思っていることだろう
『私の落ち度じゃない』なんて思うことは、
責任ある態度とは言えないんじゃない?
原因と条件:私たちのコントロールの及ばない力
私たちが自分自身を嫌う事柄は、無数の力によって形作られる
脳の原始的な習慣である攻撃性と欲求に条件付けられ、遺伝的な傾向と属する文化によって増強される。だがどれ一つとして、私たち自身が選んだものではない。
例えば、最近の研究は遺伝の及ぼす影響を次々発見している。また、人生で親や保護者から受けた経験、トラウマや被虐待、あるいは無理解などは、私たちの自分に対する扱い方を条件付ける。
15~16年前、ブラーシュ博士は自身の提供している瞑想のクラスのために、中性的なステキな仏像を買ってきた。
次のクラスで参加者に仏像を紹介した際に、面白いことに気づいた。立ったまま仏像を見つめている皆が、少しばかり左に傾いていたのだった。そう、仏像は不完全で、少し左に傾いていたのだ。
この画像を大きなサイズで見るその仏像は今でもクラスで大事な教えを伝えてくれている。コントロールの及ばない条件の支配下にあること。誰かが歪んだ鋳型を作ったのであって、それは仏像自身の落ち度ではない。
このように、自分では全くコントロールしようのない力が無数に働いているのに、私たちはそれを個人的にとらえ、自分の落ち度だと思うのだ。
恐怖、攻撃性、欲望、これらは脳と身体の原始的な活動であり、普遍的な神経回路がもたらすものなのだが、私たちはこれを自分に独自のものととらえ、「私の恐怖、私の攻撃性、私の欲望」と呼ぶ。
しかし、これらが人間であることの一部だと理解するなら、「私の恐怖」は単なる「恐怖」となる。この転換によって、積極性、柔軟性、そして穏やかさが生まれ、より深い癒しの余地が生まれるのだ。
「私の落ち度じゃない」という知恵
「私の落ち度じゃない」と言えるようになれば、実際にはより責任ある態度をとることができるようになる。
パターンを繰り返すことにとらわれるのは、自己非難のせいなのだ。最初の矢が自分のコントロール外であると気づき、自己非難を手放すことは、第2の矢がもたらす痛みから自由になるための気づきをもたらす、第一歩なのである。
あなたは今、自己非難をするような状況を思い描いているかもしれない。受け入れがたい、許しがたい状況を。
この画像を大きなサイズで見るでは今、心を縛り、傷つけているものに気づきの光を当てよう。「それは本当に私の落ち度か?」と考えてみてほしい。
傾いた仏像のように、あなたが自分で選んだわけではない条件がたくさんあるのだ。最初の矢、つまり思考や感情は、人間としての一部分であり、あなたはそれを選び取ったわけではないのだ。
自己非難をやめれば、この人生を愛することができるようになる。
自分の落ち度ではないということを受け入れることで、この世界、また内面での深い自由と真に結び付けられる。このような心を開いた状態から起こされる行動は、癒しと滋養を自然に他の人々にもたらすだろう。
※この記事はなんでも自分のせいと思い込み自分を責めてしまう思考癖がある人を対象にしたものだ。たとえ自分の落ち度があったにせよ、それを前向きにとらえ、同じ間違いをおかさないようにするためのアドバイスであり、「自分のせいじゃない」=「誰かのせいにする」ではないということを理解してほしい。
なんでも人のせいにして他人を責めるという行為は、自分の弱さを認められないほど弱いから、「正義」を振りかざし、他人の弱さを攻撃することで自分を正当化しているようなもので、いわば自分をだましている状態だ。その偽の鎧はあまりにももろく、いつかかならずしっぺ返しを食らうだろう。
via: Psychology Today, Tara Brach, Insight Meditation Community of Washingtonなど/ written by K.Y.K. / edited by parumo














まだその境地には至らないけど、考える助けには十分な内容の記事でした。ありがとうございます。
>>3
おお…何気に深いのう
自己非難をやめるのと、なんでも他人のせいにするのは違うよな
※4 誰かのせいにしなければならないというルールはないからね。誰かを責めることを放棄することで、もっと視野を広く保って問題解決自体にフォーカスする方が建設的。「犯人捜し」に狂奔することで、結局は問題の根本的解決に至らないケースは山ほどある。でもみんなこれが大好きなんだよね。
とは云う物の、自分の落ち度を認めた方が良い時と、
自分の落ち度でも無い事を自分の落ち度と思い込む時とがあって難しいノウ…
「最初の矢で傷ついているのに、なぜ自分に向けて2本目の矢を射るのか?」と仏陀はいう。「人生では常に最初の矢をコントロールできるわけではない。しかし、第2の矢は最初の矢に対する反応なのだ。これは選択することができる」
やっぱりブッダってすげぇや。
確かにその通りなんだけどなかなか上手い具合にいかないです
でもこうして文字にして記事になってると心にすっと入ってくるものがありますね
俺は悪くねぇ!
※11
十分悪いけど、咎めた奴らにきつい事を言う資格はなかった
良いことゆうやん
でもみんな分かってるでしょ
まあ、社会の規則が全てだとおもってる馬鹿は読んで理解したほうがいい
言い訳をすればいい!
みっともないとかそんなんじゃなくて、
言い訳すればするほど自分の負担が減る、これは事実
人のせいにするとか、黙って放置するより数十倍いい結果になる、これ常識だけど
いつも人付き合いで疲れてる時に、必ず「もっと自分がこうしておけば…」
って考えが頭をよぎってた
今度から「こういうこともあるさ」って気持ちでその矢をどこかに捨て置きますわ
気持ちがすごい楽になった、カラパイアいつもありがとー
まあ、上手くやってる人達は無意識にその辺りのバランスが取れてるんだろうな。
どちらかに偏ると自分が壊れるか、とんでもないクズになるかだから。
ケセラセラ、日本人は、すこしテキトウになったほうがいい。
真面目とは、神経症のようなものだから。
自分のせいだ”とは限らない”。
知識としては分かっているけど、長い間繰り返してきた思考パターンを改善するのはなかなか難しい…他人のせいにするのは悪だと刷り込まれてるから。
でも第2の矢をコントロールするってイメージはわかりやすかった。これなら罪悪感を持たずに自責を抑えられそう。
自然災害相手に「しょうがない」発揮するのに近い物を感じる
自分のせいじゃないことまで無理矢理関連付けて自分を責めるのは良くないよね
とはいえ、何でもかんでも、明らかに自分のせいで起こっている事さえ「自分のせいじゃない」と主張する人々を見ると「ああはなりたくない」と心底思うよ
何事も「ほどほど」が難しいw
自分に甘いのと自分を愛するのは違うもんね
「私の落ち度じゃない」上も下もコレを言うので責任を取れない人が増えた。
ー中間管理職のオレより。
※31
自分の落ち度じゃないものをはっきりそう言うのは責任を果たしたことになるのでは?
自分は無責任なので相手が受け入れないとわかってる時は黙って距離を置く
「自分のせいじゃない」っていうと他の誰かのせいって感じがするので
「知らんがな」の五文字で済ます
物事全て自分で背負い込む事は無いのだろうけど生きていく以上少なからず自分の責任となる部分もある訳で、抱え込みすぎても精神的にやられるし、かといって投げ出してしまえば楽にはなるだろうけど無責任野郎だなんだかんだ言われるだろうし…
なかなか上手くいかないもんだ
自己非難を繰り返す人の中には、そうしないと死の恐怖に襲われるようなトラウマを持ってる人もいるから難しいんだよ
親ってのは子供の生殺与奪のすべてを掌握している存在でもあるからな
そうしないと生き残ってこれなかったから、意識してやめろというのは大変な恐怖であり苦痛をともなうんだよ
私のせいじゃない
なんて言ったところで周囲はそれを許さん、それが日本だ諦めろ
「他人のせいにするな」と言うのも他人のせい
原因があって結果がある
けれどあらゆる事は作用しあっているので
そうであれば何か一つに原因を求める事は出来ない
自分にも他人にも
自分の遺伝子レベルで存在が不快だし、
産んだ親恨むしかねえw
これで癒されますかねぇ。早く死にてえわ。
自己批難が強い人っていうのは普通の人では理解出来ないような考え方をしてる。
誰のせいでもない状況でも「私のせいだ」と思ってしまう。
普通の人だったら自分が原因ではないという状況を理解出来るけど、出来ない人は何でも自分のせいなんだと思い込む。
これは本人の性格に一番要因があるけど、幼い頃親や周囲の人間に人格否定され続けて育つとこうなる事が多い。
要するにアダルトチルドレンなんだけど、あまりに酷い場合はカウンセリングを受けたほうが良い。
「自由には責任が伴う」というルールを知っている人は、自ら責任を負おうとするもの。だが、世の中には卑怯者が居る。「責任を追おうとせずに自由を得ようとする」者の事だ。そういった卑怯者は自分が責任を負わない為に責任転嫁の為にありとあらゆる詭弁を用いようとする。
例えば「私は上の命令に従っただけ」「愛国心故に」「愛ゆえに」「弱者は淘汰されるべきだ」「自己責任だ」と言う風にだ。
自分を責めすぎている人は、自分が負うべきでない責任を背負い込んでしまっている、もしくは、卑怯者の手によって無理やり背負い込まされているんだ。気の毒なことだ。
「責任を負っているのに自由を感じない」という事なら「負うべきでない責任を背負わされている」事を疑うと良いかもしれない
「自由を感じているのに責任を感じていない」という事なら「自分の負うべき責任を誰かに押し付けてしまっている」事を疑うと良いかもしれない
二本目の矢を受け止めれる覚悟の先に夢とゴールはある
それができずに『人のせい』にする人は『人の(人)生』を見るだけの生涯でしょう
※43
人生の頂点に向かって努力することができている人間と
溺れ死にそうになって必死でもがいている人間を
同列に語るべきじゃない
俺が俺を許す
俺は許されたのだ
そういえば、全て「自分のせい」は思考停止の楽な考えという記事があってコピーしてたな。
自分のせいにすることを、自己責任だと勘違いしている人がおります。自己責任は、自分がやった行いに対して責任をもって行動することでありまして、何でもかんでも自分のせいですごめんなさいなんとかします、というのとは全然違う。
もっと言ってしまえば、「自分のせい」の本質にあるのは「考えるの面倒だし誰かにイヤな思いさせるのもイヤだから自分が悪いことになっておけば、全部解決だよね」という他人に承認されたいただの欲求でございまして、自分主軸の考えではない。
自己責任なようで全ては他者の反応ありき。
だから、自分のせいにしている人は、いつまでも自立もできないしいつまでも自分の人生が自分の責任にならないし、いつまでも他人に意見する力も身につかない。
いつまでも、自分のアイデンティティを育てられない。
全て「自分のせい」では状況分析出来ない
自分の人生に対して当事者意識を持つのは当然ではありますが、それは「他人のせいにしない」という話では無く、現在物事がどういう方向にむかっていて、誰が何をしていないからこんなことになっているのか。また、誰が何をすればそれは解決されるだろうか。
のようなことを考えるのが必要なことであり「自分が何とかすれば、自分がしっかりすれば」なんてのをまず先に考えるのはとんだ自惚れ思考であります。
こうしたクセが根付いている人は、反省の文化などにも染まっている可能性がございますので本当に気をつけたほうが良い。
>「自分のせいじゃない」=「誰かのせいにする」ではないということを理解してほしい。
意味不明
じゃあ誰のせいなんだ?
責任の所在を明確にしないのは、いわば自分をだましている状態だ。
その偽の鎧はあまりにももろく、いつかかならずしっぺ返しを食らうだろう。
※47
自分を不必要に責める人への記事でなに言ってんだ。
周りから見て明らかに本人の責任じゃなくても自分の責任だと思い込む人への記事だぞ。
ドヤ顔で言う癖は間違ったとき恥ずかしいから気をつけたほうがいいよ。
※50
そうそれ。自分を不必要に責めてしまうからコピーしてたんだった。
小さいときから、生まれてゴメンナサイって思ってたんだけどさ、このごろ全然思わなくなって楽になってきたわ。産まれてなにが悪い、俺のせいじゃねえわって。
出来るだけ悪いことしないで、生きて死んでく予定。
自罰(自分が悪い)・他罰(他人が悪い)の他に無罰(誰のせいでもない)という思考もあってな…
もっとも、それはそれで行き過ぎれば「取るべき責任」までチャラにしてしまうという悪しき思考に至るわけだが
2本目の矢って、自分自身に向けてるときは気づかないけど
自分の大切な人に仮想的に向けてみると
酷く理不尽なものだと感じるんだよね。
そんな横暴で悪質な振る舞いなんて大嫌いな人に対してだってしないのに、
なんで自分自身にはしてしまうんだろうな。
お前がおかしい!お前が悪い!自分は傷ついた!自分は悪くない!と巧妙に誘導するDVパワハラモラハラに一時関わってしまい、体調がおかしくなった事がある(大昔)
被害者面して他人を責め罪悪感を煽るソイツらと絶縁したら、もう生まれ変わったように健康になった
自分は心理的養分として利用されてたんだ、被害者面の彼らこそ加害者だったんだ、なんで自分はあんな奴等に何年も我慢してたんだ!と、自分自身に呆れた。
よ~く、見てみ?
無神経無責任な奴の、ツレや家族や子供を。
大概、荒れたり病んだり、ほぼ全員、悲惨。
毒親と同類の異常者には、極力関わらないのが吉。
加害者、毒親のキメ台詞➡
「他人のせいにするな!親のせいにするな!」
他人は、はっきり鏡になってやるのが、本人のためです
「お前が馬鹿なのはお前自身のせいだ、他人のせいじゃない」と心で黙って見放し、
早めに逃げるべし
親切心で直接言っても、現実逃避したい奴は逆恨みするだけだからね(これも経験済み)
だが、事態を打開できるのは自分だけ、他人は当てにならない。
自分のせいじゃないと唱えて元気になったら、さてどうすると気持ちを切り替えなくては。
しかし社会はそれを許さない。
誰かの罪を擦り付けられ、いつのまにか自分の罪として、公然の事実のように作り上げられる。
そんなこと何度も味わったら何が正しくて何が間違いなのか解らなくなったよ。
2度自分を射っていたけどこの記事のお陰で自分を許せる
そんな気分になれた
優しい文章で書いてくださったので凄い読みやすかったです。
自分を責めるんじゃなく、
「しゃーない」と自分で許すことが大事なんですね。
自分にも責任があるが他人にも責任がある
そのうちのどのくらいの割合が自分の責任なの?って思えばいい
0対100の責任の押し付けあいをよく見るけど、実際は45対55なのに全部自分が悪いと言ったり、相手が全部悪いという人が大勢いる
ほぼほぼ0対100は見かけないくらい少ないんだよ実際は