この画像を大きなサイズで見るその出来事は「異国船牟岐浦漂着事件」と呼ばれている。
これは、1829年、徳川家斉の時代、英国籍らしき船が徳島藩牟岐沖(現徳島県)に現れ、藩側が異国船打払令に従い砲撃を加えたという事件である。
有名な事件であるにもかからず、詳しいことが知られていなかったが、どうやらこの船に乗っていたのは、オーストラリアで船を乗っ取った囚人たちであったらしいことが判明した。
残された水彩画からその謎を解き明かした英会話教師
ならず者が鎖国中の日本に立ち寄ったという話はオーストラリアでも伝えられていたが、日本側にその記録がないことから、専門家からは作り話であると考えられてきた。これを覆す発見をしたのが、日本で英会話教師をしている歴史愛好家のニック・ラッセル氏だ。
ラッセル氏は2014年に徳島県立文書館のサイトにあった無名の英国籍船の水彩画を目にして、この事件に興味を引かれたという。
以来、徳島藩士、浜口巻太が記した見聞録『異国船舶来話并図』やこれを解読した資料『異国船牟岐浦漂着』を地元の人の協力を得つつ翻訳を進めていった。
この画像を大きなサイズで見る異国船打払令にもとづき砲撃した徳島藩
1829年12月20日、漂流する異国船が発見され、やがて船は牟岐出羽島近くに碇を降ろした。これを受けて徳島藩側は藩士や農民を動員して警備にあたらせる。
12月23日、徳島藩は幕府の異国船打払令に従い砲撃を開始、異国船は立ち去っていった。これが事件のあらましである。
このとき異国船の様子を探るため、漁民になりすまして偵察に出たのが浜口巻太だ。
船員はみなハゲ頭?
その資料によると、外国人の船乗りは長く尖った鼻をしており、敵意は持っておらず、水と薪を身ぶり手振りで所望してきたらしい。これを拒絶されると、1人は泣き出し、祈り始めたという。
20代半ばと思われる船乗りが、タバコを怪しげな物体に入れ、それを吸ってから煙を吐き出したという記述もある。
船長は緋色のウールコートに、袖口は金の刺繍入り、ボタンは銀箔という服装で、非常に美しいが華美にすぎると評されている。
彼は敬意を示すためと思われるが、部下に対して帽子を脱ぐよう命じた。彼らのほとんどはハゲ頭だったと記されている。
また船員の言葉はまるで鳥が囀るかのように聞こえたそうだ。船には1匹の犬が乗っていたが、どうやら食料ではなくペットであったようだ。
この画像を大きなサイズで見る船員は贈り物を寄越したという。資料に描かれている絵には、ブーメランらしきものがある。また船員の1人は浜口に向かって胸をはだけ、上半身に彫られた美しい女性のタトゥーを見せたという。
別の者は、酒らしきものが注がれた大きなグラスを差し出し、飲むように身振り手振りで伝えてきた。浜口らが手を振って断ると、仲間内で回し飲みし、ひたいを叩いては酔って気分が良くなっていることを伝えてきたという。
対応に追われる徳島藩
一方、徳島藩側は1825年に出された異国船打払令について検討していた。これは外国船を焼き払い、上陸した外国人は捕らえるか、殺すかすることを命じたものだ。
郡代、山内忠太郎は立ち去るならば水と薪を与えると申し出るが、船は動かなかった。報告に戻った浜口の絵に描かれていた旗から船がイギリス船であるらしいことが判明すると、徳島藩はついに砲撃を開始。被弾した船は風を待って出航する旨を通知し、やがて出航した。
この画像を大きなサイズで見る囚人によって乗っ取られたキプロス号
最初、ラッセル氏はこの船が捕鯨船だったのではないかと疑ったそうだ。捕鯨船で反乱が一般的だったことを知ったラッセル氏は、「反乱 1829年」と検索してみた。こうした辿り着いたのが、『キプロス号を盗んだ男(The Man Who Stole the Cyprus)』という歴史書だ。
そこには1829年、英国の囚人収容所があったタスマニア島ホバートからマクアリー港へ向かうキプロス号が、護送中の囚人の反乱によって乗っ取られた事件が記載されていた。
首謀者はウィリアム・スワロー。かつて英国の貨物船で下働きをし、ナポレオン戦争では海軍に徴兵されたが、海賊行為のかどでロンドンで裁判を受けた人物だった。
オーストラリアではすでにキプロス号が日本に漂着したという話が伝わっていた。しかし日本側の資料にキプロス号について言及したものがなかったことから、単なる言い伝えであると考えられてきた。
ところが、この本に記載されていた船の大きさやマストの高さ、船員の服装や人数、漂着した時期までがほぼ一致していたのである。
ほかにも水と薪の補給を求めていたこと、侍へ宛てた書簡、砲撃を受けるも風がなくて出航できなかったことまで同じであった。
この画像を大きなサイズで見る囚人に乗っ取られたキプロスが日本に漂着したことはほぼ事実
キプロスを盗んだ男の著者ワーウィック・ハースト氏は、「違うと言うには、一致点が多すぎます」とコメント。
なおスワローがマカオや香港に辿り着いたという確かな証拠があるらしいが、結局タスマニアに送還され、4年後にポートアーサーで亡くなっている。
彼はオーストラリアの民謡でも歌われる人物だ。「おそらく日本へ行った初めてのオーストラリア船でしょう」とハースト氏も今回の発見の正しさに確信を持っている。
ラッセル氏が明らかにしたのは、日本にとっては187年前の出来事の真相であり、オーストラリアにとっては殖民時代の歴史の新事実である。
via:.reddit・theguardianなど/ written hiroching / edited by parumo
ペリーの黒船来航は1853年。その約四半世紀前に、オーストラリアの囚人ズは日本を訪れていたってわけだ。ほとんどが解明されていたと思った歴史的事実だけど、まだまだ新たなる発見ってあるんだね。














「異国船牟岐浦漂着事件」で検索したらちょこちょこ記事がひっかかりますね
しばらく読み耽ることにします
何よりもその時代なりに丁寧に記録していたことに脱帽
こういう歴史の謎解きというかパズルをはめ込むみたいなお話し好きよ
オーストラリアなんだかイギリスなんだかキプロスなんだか
※4
オーストラリアが植民地時代の出来事、とあるから
ざっくりイギリスと考えていいんじゃないかな?
俺の嫁(徳島出身)が強い理由が今、わかった。
※5
南条光の事ですね(名推理
仮に宇宙から来た乗り物でも同じようにして撃退が
出来たのかちょっとだけ気になる
本当に日本人は何かあったら書き留めてるもんなんだな
今だと写真なりつぶやきになってるけども
※7
虚栄心満たすためにインスタ映えするようアプリ使ったり構図を意図するように
ウヨサヨが己を正当化するためにwikiで編集合戦のように
当時も誇張とかあるんだろうか
大なり小なりこういう出来事はあったんではないかと
残ってるものなんだね
帽子らしきものの絵に「笠」「頭巾」と添え書きしてあるとこを見ると
当時はたぶん帽子という言葉がなかったんだな
文明開化で西洋文化が入ってきたころにできた単語だと勝手に予想
※12
帽子という言葉は昔からあると思う。
烏帽子は「黒い帽子」て意味だから
むしろ帽、帽子の意味の幅が広すぎてどういうものか示せないんでは
歴史のパズルがハマったことは面白いんだけど、
なんでこんな検索したりしたらわかることを今まで誰も指摘すらせんかったんだ
※13
検索って言うけども、インターネットができたの1970年代だしサーバー立てたり他所から見れるようにしたり資料を集めて記事を書いたりしてようやくヒットするようになる代物なんやで。おまけに興味のある人が自ら調べようとしなけりゃいかんという。学者先生の部屋って良くインタビューとかで本山積みになってる印象あるからパソコン使えるのかどうかも怪しいなw
こっそり泳いで上陸したヤツがいてその後どう生きたか?とか想像が膨らむね
ロマンがあるなぁ、この時代にヨーロッパ、オーストラリア、アジアと地球を半周したのか
亡命させてこの船を分析してれば日本もいち早く外洋に出られたのに
※15
別に外洋に出られなかったんじゃなくて、出ないのが幕府の方針だっただけで…。
必要ならオランダに発注すれば、船員の訓練込みで受けてくれてただろう。
ヤンキーより先にオージーが来ていたとは。
まあ、トミーやダッチはそれよりはるか以前だが
囚人だけで運航出来たのが驚きだな、首謀者の経歴見ると他にも元船乗りが居たのかな?何処を目指したのかねぇ?
日本で水を手に入れられなかったなら、雨水で凌いだのかな?
上陸を阻止したのは当時としては仕方なかっただろうけど、自分が断られたら絶望するかも…
他国の記録と擦り合わせて判明する歴史ってホントに面白い
カナダだったかな?過去の津波が日本の地震の記録で時期が判明したってのもあったよね
磯田先生が興奮してそうな話題やね
ペリー来航の以前からひっきりなしというレベルでいろんな国の外国船は日本を訪れてるし
ペリーも幕府は来る一年も前から知ってたので外国船だからといって珍しい事案ではないですね
海賊というのは面白いですが
当時の日本を訪れた外国船の記録を読むと日本人は怖がるどころかみんなして小舟を繰り出して船に乗り込んできて、野菜やお金を土産に見物させてくれと押しかけてきたそうです
スパロウではなくスワローか。
彼らのほとんどはハゲ頭...
※24
シラミ対策ではないでしょうかね。
毛がなければ問題ないし。
日本の少年らの戦中戦後のボールヘッドは DDT 使わないでシラミを根絶するためとどこかで読みました
日本って結構昔から記録魔な節があるらしいね。
いつだかに超新星爆発の年代を古い日本の文献から推定したとか言うのも見たことあるわ
和紙が丈夫だからか残ってる物も多いし
こういった情報が書き残されてるのは
紙の生産が増大した江戸時代らしい資料だなと思う一方で
シャングリラの様な快適で便利な生活を手に入れた現代人が
未だに億劫で煩わしい作業の筆頭であろう書類の作成作業を
紙の生産が盛んなったせいで爆発的に増えた当時の人達を想うと
同情の念を禁じ得ない。
細かく載ってるもんだね
すげー
敵意は持っておらず、水と薪を身ぶり手振りで所望してきたらしい。これを拒絶されると、1人は泣き出し、祈り始めたという。
ここが切ない
拒否したら1人が泣き出した。で笑ってしまったw可愛いやんw
※31
「先生怒らないから言ってごらん式に調査」って表現可愛い
ここまで詳細に絵が描けるってことは
上陸してたか船に上がったってことか?
画材はなに使ってるんだろ?船の絵がなんか色鉛筆で描いたように見える
藩おかかえの絵師でもいたんだろうな、絵が上手い。茨城の浜に漂着した「うつろ舟」も救命ボートか何かの目撃報告だったんじゃないかね。
※41
たぶん幕府に
報告しないとならなかったんだろうね
学者じゃなくて市井の人がこういう発見をするのってロマンだよね
今頃、歴史の新事実が発見されるとは摩訶不思議。
「阿波藩」なんですが。
着いたのが長崎だったらどうなってたろうな?唯一の外交窓口。
彼らの運命も変わってたかもしれんね。
こういう風に、一世紀以上前の新事実が明らかになるのっていいね
しかみインターネットを駆使したってことにもロマンを感じる
逆に当時の日本人の漂流記は未だに地方の蔵に大量に眠っているはず。
江戸時代の千石船は一本マストで外洋に弱く遭難が相次いでいたから。
追い出されて全滅したのかな?
パイレーツ・オブ・瀬戸内海
徳島藩は1771年にもベニョヴスキーというガチ犯罪者の乗った船が現れてて、
そいつの残した嘘まみれの手紙で色々面倒な事になってるからねえ。
水と薪を拒否られた時の絶望感 そりゃ泣くわ
面白い。
特に偵察するために漁民に身をやつした浜口巻太、そういった任務を与えられるのは
当人が就いてた役職もあっただろうが、相当目端の利いた人物だったんだろう。
まさに考古学