この画像を大きなサイズで見るトルコ西部にある古代ギリシャ都市のノティオンの遺跡から、およそ2600年前の大量のペルシャ金貨が壺に入った状態で発見された。2023年7月に発掘されたこれらの金貨は、傭兵に支払うための給料だったようだ。
金貨はペルシア帝国が発行したダリクと呼ばれるもので、1枚で兵士の約1か月分の給料を賄うのに十分なものだったという。
壺に入った状態で大量に発見されたペルシャ金貨「ダリク」
この貨幣はペルシャ帝国が発行したダリクという金貨で、ひざまずく射手が描かれているのが特徴だ。ノティオンの北東96kmのところにあるサルディスで鋳造されたものと思われる。
紀元前6世紀後半から、紀元前330年にアレクサンダー大王がペルシャ帝国を征服するまで鋳造されていた。
年代と共にわずかにデザインが変遷しているのがわかり、詳しい時代を特定するのに役立ちそうだ。
この金貨の考古学的背景が正確に解明されれば、古代ペルシアに存在した王朝「アケメネス朝」の金貨の年代を細かく調整することができるかもしれない。
「正式な考古学発掘調査でこのような発見は非常に稀なことです」ミシガン大学の考古学者クリストファー・ラテ氏は語る。
後で回収するつもりがないのに、大量の貴金属コインを埋めるような者は誰もいないはずです。このような宝物がそのまま発掘されたのは、よほどの不運な理由があったとしか思えないのです(クリストファー・ラテ氏)
この画像を大きなサイズで見る金貨1枚で兵士1人の一か月分の給料
この遺跡は、紀元前3世紀から1世紀のヘレニズム時代にまでさかのぼるもので、もっとも保存状態がいい。
町の中心部にある大きな中庭のある家の発掘調査から、ここにはもっと以前から人が住んでいたらしいことがわかった。
家の基礎に組み込まれた古い壁から、紀元前5世紀のものらしい陶器の破片が見つかったからだ。この中庭の下から金貨の入った壺が見つかったのだ。
この金貨はヘレニズム時代の家の下に埋まった建物の部屋の隅から発見されたそうで、何か複雑な事情があって回収されなかったものとみられている。
ギリシャの軍人で歴史家のクセノポンによると、当時の1ダリクは兵士ひとりの一ヵ月分の給料に相当したという。
この画像を大きなサイズで見るペルシャ帝国に支配された古代都市のノティオン
ノティオンは、紀元前6世紀半ば、トルコ西海岸のほかの都市とともにペルシャ帝国に編入され、紀元前5世紀始めにその支配から解放された。
しかし紀元前4世紀初頭にまたしてもペルシャ帝国に取り込まれ、アレクサンダー大王が征服するまでその支配下に置かれた。
古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスは、ノティオンや近隣都市の住民たちの激烈な状況を記録している。この地域はペルシャとアテネの勢力圏がぶつかる境界地域だったのだ。
トゥキュディデスの記録によると、紀元前430年と427年の間にコロフォンの町の親ペルシャ派の一団が、ギリシャ人や「蛮族」の傭兵と共にノティオンの一部を占領したという。
紀元前247年には、アテネの将軍パケスが親ペルシャ派の指揮官を罠にはめ、傭兵たちを殺害したとある。
最終的には、親ペルシャ派は追放され、ノティオンの町はアテネの管理下で再編されたという。
この画像を大きなサイズで見る動乱の最中に隠されたのか?
こうした動乱状態のせいで、隠された貨幣が結果的に回収されなかったのかもしれない。だがそれだけではない。
紀元前406年、アテネとスパルタの戦争中にノティオン沖で決定的な海戦があった。
当時、ノティオンはアテネの海軍基地で、紀元前360年代のアナトリア西部の総督たちによる暴動「大サトラップの反乱」の勃発で、ノティオン港は重要な軍事資産となり、この時期に港が強化された可能性は高い。金貨が埋められた時期と年代的にも合う。
現在、この金貨はトルコのエフェソス考古学博物館で研究、保管されている。ノティオンの新たなエリアの発掘も進められていて、金貨の考古学的背景がさらに明らかになることだろう。
















給料を金貨1枚で渡されても買い物大変そうだよな
すぐに使うのではなく持ち運びや貯めやすい、そして給料として手軽に渡せる財産として重宝したのかな
これ、これ、山吹色の・・ひっひひひひ(^_^メ)
月給金貨一枚。
ある意味、現代の銀行振込に似て
支給の労力(だけ)は少ないのかも。
大量に見つかったのなら、ザックザクな状態の写真が見たかった、、、!
わずかな金で命かけるな スマンのぉ~
地面の下に壺に入った大量の金貨… たしかに穏やかじゃあない事情がありそう
ペルシアの貨幣は傭兵の雇用制度を支える重要なアイテムだったのだが、当のペルシアの高官でさえ、毎月の給金支払いを滞りなく行うのに苦労している様子が文献からは読み取れる。仮に5千人の傭兵を雇うとして、この金貨を毎月5千枚も集めてくるのは簡単なことじゃない。そのためしばしばギリシア人傭兵隊長が雇い主のペルシア太守のもとへ給金の要求に赴き、太守はなにかと理由を付けて遅延したり、一度に数か月分の給与を支給したりという記述が見て取れる
むろん、支払えなければ傭兵は従軍を拒絶することもできる。だがもっと狡猾な雇い主は、同じペルシア帝国の同僚でありながらライバル関係にあった別のペルシア領へ赴き、略奪によって自分たちの生活の糧を稼いでくるのを許可する者もあった。あるいは傭兵隊長の方でも知恵を働かせて、敵軍より自軍の給与を多くすれば士気も上がるし敵に裏切りが出るだろうと言ってより多くの資金を引き出そうとする者もいる
ペルシア帝国領内を荒らしまわったスパルタ王アゲシラオスは、ペルシアからの賄賂によって反スパルタの戦争が勃発しギリシア本土に戻らねばならなくなったとき、この貨幣の図像を指して「私はこれらの弓兵に敗れて撤退するのだ」と愚痴をこぼしたという