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圧倒的強さを誇ったローマ帝国がどうしても征服できなかった8つの場所

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(著) (編集)

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Keith Lance Photo by:iStock
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 かつて地中海全域を支配し、「征服王」として世界に君臨したローマ帝国。第16代ローマ皇帝、マルクス・アウレリウスは、自分の兵士たちに「波が砕け散る断崖のようになれ!」と言った。

 しかし、その圧倒的な強さを誇るローマ帝国が征服できなかった場所が存在する。ここでは、ローマ帝国の支配を免れた8つの場所とその理由を見ていこう。

1. 女王の徹底抗戦で勝利を勝ち取ったスーダン

 ローマの初代皇帝アウグストゥスの時代(紀元前27年~西暦14年)、ローマのエジプト総督だったアエリウス・ガルスは、現在のスーダンのヌビアにあったクシュ王国に税金を課した。

 しかしクシュの人々は自分たちはローマの属国ではないと思っていた。

 紀元前1世紀末から紀元後1世紀初頭にかけてクシュ王国を統治した女王アマニレナスはこの課税に激怒して、ローマ領を襲撃、捕虜や略奪品、アウグストゥスの青銅の首を持ち帰った。

 それを神殿の階段の下に埋め、訪れる人が皇帝の首を足蹴にして笑いものにするようにした。

 この襲撃がきっかけになってローマ軍とクシュ族の間で何年にもわたる一進一退の戦いが始まった。

 ヌビアの町がローマ軍に破壊されることもあったが、アマニレナスは不屈の精神で兵士たちと共に激しく戦った。この戦いで彼女は片目を失い、後に隻眼の女王として知られることになる。

 結局、紀元前21年にエジプト総督はアマニレナスに屈した。サモス条約で、アマニレナスはアウグストゥスから自国民の主権を確約し、これは実質的にローマの降伏だと言われた。

 この条約は何世紀も続き、ローマ軍は二度とエジプト南部の征服に乗り出すことはなかった。

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アマニレナスが持ち帰ったアウグストゥス帝の青銅の頭部は、のちにメロエの寺院の階段の下で発見された image credit:Carole Raddato source / WIKI commons CC BY-SA 2.0

2. 地形により征服を免れたイエメン

 ローマはイエメンを高く評価していた。彼らが名づけた3つのアラビアのうち、「幸福なアラビア」を意味するもっとも明るい名前をイエメンに与えた。

 土地は豊かで気候もすばらしかったが、その賞賛がいつしか野心に変わり、侵略戦争へとつながった。

 紀元前26年に総督アエリウス・ガルスが皇帝アウグストゥスからイエメンへの進軍を命じられた。

 ローマの属国だったナバテアのシラエウスが部隊を導くことになったが、イエメンを通る貴重な交易路をローマ人に侵害させることは、ナバテアの経済的利益に反すると彼は密かに考えていた。

 そこで、シラエウスはわざともっとも荒廃した不毛なルートを通ってアエリウス・ガルスを案内し、アラビア半島を抜けた。

 そのため、ガルスの部隊は飢えや病気に苦しみ、ひどく衰弱した状態でイエメンに到着した。こんな状態ではイエメンを占領するどころではなく、早々にエジプトに引き揚げるしかなかったという。

 その後イエメンがローマ人に征服されることはなかった。

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JeanUrsula Photo by:iStock

3. 国内の城壁を無視して攻め続けたスコットランド

 当時、カレドニアとして知られていたスコットランドは、ローマの司令官にとっては苛立たしい場所だった。

 ローマは3度、この場所の征服を試みたが、そのたびに諦めざるを得なかった。

 とはいえ、ローマ軍がハドリアヌスの長城を越え、わずか数年でアントニヌスの長城までなんとかたどり着くことができたのは確かだ。

 アントニヌスの長城は、ハドリアヌスの長城とは違って、現在のスコットランド内に位置する防壁であり、140年にローマ皇帝アントニヌス・ピウスの命により建設が始まった。

 この壁はローマ帝国の北の境界線を示すものとなったが、ローマ帝国の安全を守る役割は果たせなかった。

 スコットランド人は嬉々としてこの要塞を無視して越境し、ローマに占領されていた間もローマへの襲撃を続けたのだ。

 防壁建設から20年、ローマ人は嫌気がさしてハドリアヌスの長城まで撤退し、スコットランドは再び自由を手に入れたのだ。

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アントニヌスの長城の壁 Photo by:iStock alanfin

4. 侵略を免れたアイルランド

 ローマ人はアイルランドを「永遠の冬の国」という意味のヒベルニアと名づけた。

 ローマの地理学者ストラボンは「アイルランド人はブリテン人よりも野蛮で自分の死んだ父親ですら食べてしまう」などとこきおろした。

 それほど当時のローマにとってアイルランドは魅力がなく、占領する価値もなかったようだ。

 だが、紀元77年から84年までブリタニアを統治したローマの将軍アグリコラがアイルランド侵攻を検討したことは知られている。

 伝記作家のタキトゥスによると、アグリコラは友人になったアイルランド王子から情報を集め、1個軍団でアイルランドを攻略できると信じ込んだようだ。

 しかし実際に侵略は行われなかった。

 ローマ帝国の政治・社会を風刺した詩人ユウェナリスの著作からはアグリコラがアイルランドに侵攻したと解釈されることもあるが、確かなことはわからない。

 実際にアグリコラがアイルランドを見たかどうかはともかく、考古学的な記録にはアグリコラもその後のローマもエメラルド・アイランド(アイルランドのこと)の征服に成功したという記述はない。

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Photo by:iStock pabradyphoto

5. ローマではなくペルシャの反逆者によって陥落したイラン

 ローマとパルティア(現在のイランとイラク地域)との戦争は、ローマ帝国誕生前から始まり、パルティア崩壊後も続いた。

 両者の戦争には4つのおもなサイクルがある。

 平和的な外交を行っていた時期もあったが、反パルティア感情は常にローマ人にあった。

 パルティアはカルラエの戦いでローマにかなりの打撃を与え、指揮官クラッススの喉に溶けた金を流し込み、あらゆる場面でローマを繰り返し侮辱した。

 トラヤヌス帝が西暦116年にパルティアの首都クテシフォンを制圧したときが真の勝利だと考えられたが、その占領は長続きはしなかった。

 同じ年に反乱が勃発し、後継者であるハドリアヌス帝は船を放棄した。

 クテシフォンからのローマの撤退は、ローマとパルティアの戦争に最終的な終止符をうったわけではなかったが、ローマの東方への野望はますます高まった。

 その1世紀あまり後に、パルティアはローマではなく、ペルシャの反逆者アルダシールによって陥落。

 アルダシールはペルシャ、ササン朝の初代シャーハンシャー(王)になり、その子孫はローマと何世紀にもわたる長く不毛な戦いを続け、結果的にパルティアの伝統を守ったことになった。

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長槍コンタリオンを構えたパルティアのカタフラクト(重騎兵)がライオンと戦うレリーフ public domain/wikimedia

6. パルティアとローマの関係で支配を免れたアルメニア

 ローマのアルメニア完全征服はことごとく失敗に終わった。トラヤヌス帝は3年間、アルメニアを占領したが、後継者のハドリアヌス帝が軍を撤退させた。

 この小さな山岳国家がローマ軍の手に余るわけはなかったが、政治的にはアルメニアはローマとそのライバル、パルティアとの果てしない綱引き闘争に巻き込まれていた。

 つまり、ローマはパルティアを刺激しそうな(実際に刺激した)軍事力を使わなくても、高圧的な影響力と政治手腕でもっと徹底的にアルメニアを支配することができたことを意味していた。

 ローマは何度もアルメニアを事実上の臣下にしようとした。例えば、ランデイア条約ではローマはパルティアの王子がアルメニアの王位に就くことに同意したが、それはローマ帝国が彼を指名した場合に限られていた。

 こうした取り決めによって、ローマ帝国時代のアルメニアは確かに安定したが、再びローマとパルティアとの戦争が始まるとアルメニアは混乱に陥ることになった。

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アルメニア YuliaGr Photo by:iStock

7. ローマに支援されていたポーランド(プシェヴォルスク)

 ローマ時代、現在のポーランドにあたる地域には、プシェヴォルスク人と呼ばれる人たちが住んでいた。

 ローマ人はルギイ族という部族についてふれていて、今ではこのルギイ族がプシェヴォルスク人だとされている。ローマ人はこのルギイ族を征服しようとはしなかったようだ。

 ローマのドミティアヌス帝は、西暦92年スエビ族と戦っていたルギイ族を支援するために100人の騎兵を派遣したとされている。

 獰猛なゲルマン人を手なずけるよりも、ルギイ族を手なづけておくほうが平和的に片付くと考えたようだ。しかし、ルギイ族は最終的にヴァンダル人となり、ローマ帝国が崩壊したとき市内の略奪に加わったという。

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ポーランドの冬の光景 Photo by:iStock jonesyinc

8. ドイツ(ゲルマン)は逆にローマを征服したのかもしれない

 ローマのドイツ征服はまったく分が悪かったようだ。

 紀元410年に永遠の都(ローマのこと)を略奪したのはゲルマン民族だったことを考えると、ローマを征服したのはドイツのほうだったのかもしれない。

 ゲルマン民族との何世紀にもわたる小競り合いは、ローマを疲弊させ、交易を妨げ、何人かの皇帝も殺された。トイトブルグの森の戦いの大敗で、ローマはゲルマン領への領地拡大と征服を阻まれた。

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トイトブルク森の戦い Grafissimo Photo by:iStock

 西暦9年のこの戦いはローマのもっとも壊滅的な敗北のひとつと言われているくらいだった。

ゲルマン民族のリーダー、アルミニウスは、わずか4日でローマの3個軍団を全滅させたという。

 ローマの司令官ゲルマニクスは、数年後にリベンジしようとしたが、大敗に動揺したローマがその後、仲間の死体が転がるゲルマンの土地を支配することは決してなかった。

References: 8 Places the Romans Failed to Conquer

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この記事へのコメント 13件

コメントを書く

  1. そのローマも最後はオスマンに支配されて終焉した

    • +4
  2. 今はローマ帝国下に入らなかった国は「未開でオワタ」て感じになっちゃってんだよ
    変な話だけど

    • -6
  3. ローマと言えどアウェーだと力及ばずといったところ カエサルやトラヤヌスみたいな人物はそれこそ百年に一人なのだと

    • +10
    1. 補給、兵站を現代技術、すなわち内燃機関もトラックも航空機もない時代にする苦労は想像を絶する

      • +5
  4. 攻め込まなかったのは『温泉』が無かったからじゃないのか……。

    • +8
    1. ローマ人と日本人てお風呂スキーでは親和性あるな、タイムスリップするのもわかる。

      • +6
  5. エジプト属州が一番の金蔵だったようにヌビアもむちゃむちゃ利益生むと分かっていて諦めたってことは、完敗したんだろうな

    ↑どこのことを言ってるのかわからないが、あるだろ

    • -3
  6. 基本的に本拠地から遠すぎるのと、占領する利益が薄いって事かな。
    しかし今のイエメンまで攻めていたとは知らなかった。

    • +5
  7. そもそも侵略しに行くメリットがないとか、メリットはあれども侵略しに行こうにも遠すぎて割に合わなかったり地形や気候的に無理ゲーな場所が多いな

    • +4
  8. そのアルミニウスはローマへの同化のために子供の頃からローマで育てられ、
    優秀だったから軍でも出世してローマのやり方を知り尽くしていたっていうね

    • +3
  9. 本拠地から遠くても長期支配に成功してる場所はたくさんあるのだから、とくにゲルマニアやペルシア、ヌビアのような地域を征服できなかったのは抵抗した人々の成果と言っていい

    もっとも、ローマ軍団に兵員を提供していた民族がどこの出身だったかは影響が大きいと思う。とくに東方の民族は、騎兵としては優秀だったが(ローマ軍団の主力である)歩兵の適性は低かったと思われるから、メソポタミアで攻勢限界が来るのはそのへんの影響かもしれない
    ゲルマン人が傭兵として多数入り込んでいたのは有名だから、ゲルマニアはローマ軍の圧力をもっとも受けやすい地域に見えるが、独立を保ち切ったのはゲルマン人がそれだけ強かったのだろう

    • +5
  10. トイブルクの後もアウグストゥスが派遣したティベリウスが
    すぐに軍隊の立て直しと再侵攻に成功しています
    その後アウグストゥスの後を継いで最高権力者に昇った彼が帝国の版図に組み込む意欲を示さなかったのは
    広大な国境線を抱え込み都市化に莫大なコストが掛かる土地に魅力を感じなかったからに過ぎません
    ラツィアとダルマティアでの空前の大反乱を単独で鎮めた彼には十分な軍事的な才能と
    河川沿いの正規軍を抱えていましたが彼にはより喫緊の重要な仕事
    アウグストゥスが赤字化させた財政の立て直しと言う仕事がありました

    西アルプスからスカンジナビア半島まで戦い続け
    帝国でも稀な無敗の人の尊称まで元老に提案されたティベリウスには
    領土さえ増えればいいという不毛な塗り絵遊びに興じる趣味が無かったのです

    • +4

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