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ローマ帝国時代の処刑場となっていた死の階段、ジェモニアン階段(イタリア)

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(著) (編集)

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 イタリア・ローマの中心部、タルペーイアの岩からそれほど遠くないところにあるカピトリーノの丘には、かつて犯罪者たちを死へ追いやった忌まわしい処刑場があった。

 マメルティヌスの牢獄に収監されていた死刑囚たちは、近くにあるスカラエ・ゲモニアエ処刑場で絞首刑となり、この丘から下ったところにあるフォロ・ロマーノへと続くジェモニアン階段に遺体を投げ落とされたのだ。

 ゆえにこの階段は「死の階段」と呼ばれている。

絞首刑となった死刑囚の遺体が階段から投げ落とされる

 スカラエ・ゲモニアエ処刑場は、1世紀になる頃に、ローマ帝国初代皇帝オクタヴィアヌスによって建設されたと言われている。しかし、ジェモニアン階段が死の階段として有名になったのは、二代皇帝ティベリウスのときだ。

 ティベリウスには多くの政敵がいた。帝位剥奪の陰謀に加担したとされるルキウス・セイヤヌスもこの階段で処刑されている。

 階段から転げ落ちること自体は、それほど致命的ではない。だが、死刑囚たちは、たいてい階段の上で絞首刑になり、その遺体が階段の下へと投げ落とされた。

 そして、遺体が腐敗し始め、犬や猛禽類に食い荒らされておぞましい姿になるまで、そのまま数日放置された。

 セイヤヌスの遺体が落とされたとき、狂乱した群衆が群がって遺体をバラバラに引き裂き、あたりを引きずりまわして、最後にはテヴェレ川に投げ込んだという。

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皇帝ウィテッリウスも死の階段で処刑される

 紀元37年にティベリウスが死ぬと、この階段での処刑はそれほど頻繁に行われなくなったが、それでも相変わらず死の階段としての役割は続いていた。

 有名な犠牲者は、皇帝アウルス・ウィテッリウス。69年、ローマを巡ってウィテリウスとウェスパシアヌスの間で激しい戦いが起こり、ウィテリウスは隠れ家から引きずれ出されて、スカラエ・ゲモニアエへ送られ、そこで拷問を受けて死んだ。

 階段の下へ投げ落とされたウィテリウスの遺体は、ローマの住民に蹂躙されたという。この階段で処刑、虐待されることは、死者にとって最大の恥であり、不名誉なこととされた。

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ローマの通りを引きずりまわされる皇帝ウィテリウス。ジョルジュ・ロシュグロス作(1883年)

 皮肉なことに、ティベリウス自身が殺されたとき(カリギュラとその仲間によって就寝中に枕で窒息死させられた)、人々が階段のまわりに群がって、”ティベリウスをテヴェレ川へ”と叫び、遺体を階段の上にさらすよう求めた。

When in Rome: Gemonian stairs

ローマ帝国時代の象徴的建造物

 この階段は、たびたびデモの現場にもなり、国政への抗議の声があげられた。ローマの政治家グナエウス・ピソは、ティベリウスの養子であり、卓越した司令官だったゲルマニクス・カエサルを暗殺した容疑をかけられた。

 民衆は激怒したが、ピソ本人を捕えることができなかったので、彼の像を階段まで引きずり出して、これまでと同じような処刑の手順をとった。

 皇帝ウィテリウスが処刑され、その遺体が蹂躙された後は、階段でのこうした死はあまり聞かれなくなった。

 81年に皇帝の座に就いたドミティアヌスは、犯罪者たちに死に方を選ぶ機会を与え、階段で遺体を蹂躙する行為を禁じた。

 しかし、一時はローマ軍の侵略をくいとめたダキア族の王デケバルスは、最終的に106年に捕えられ、時の皇帝トラヤヌスによって斬首されて、その首は階段の下へ投げ落とされた。

 このときは、恒例の見世物は、セヤヌスやウィテリウスのときのような集団暴力の場というよりは、興味本位になっていた。

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フォロ・ロマーノの地図。スカラエ・ゲモニアエは赤い矢印のところ。

image credit:wikimedia commons / runeberg
 スカラエ・ゲモニアエは、現在は存在しないが、その場所はマメルティヌス牢獄跡を過ぎた、カルチェレにある現在のサン・ピエトロ通りとほぼ一致している。

References:amusingplanet/ written by konohazuku / edited by parumo

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この記事へのコメント 17件

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  1. まあ死んだあと何されようがどうでもいいがやった方は後世に恥を晒すことになるなあ
    処刑場自体は今もいくらでもあるしどうということもない

    • +2
  2. 教科書に載っていない名画はまだ沢山あるんだな。
    当時の異様な狂乱ぶりが生々しく伝わってくる。

    • +10
    1. >>2
      絵画が描かれたのは、西暦1883年
      処刑が行われたのは、西暦69年

      1814年前の出来事を描いてるから、当時の様子じゃなくて想像画だよ

      • +2
  3. ティベリウスの直接統治時代はむしろ処刑件数は少なかった
    ゲルマニクスの死に悲嘆にくれて身心の健康を祈る元老員決議がスペインで出土してるのに
    暗殺犯とされたピソの公正な裁判を求めてるし
    息子に対する有罪宣告も子は親に従うしかないものだとティベリウス自身が取り消させてる
    何故ティベリウスが直接統治を止めて島に籠もったかと言えば
    タキトゥスの記述によれば誰よりも賢明に寝食を忘れて国家に尽くしてたのに
    如何に市民から軽んじられて馬鹿にされてるかを
    いつも通り裁判に臨席してたときに皇帝侮辱罪の証言として聞かされたから
    九割がたローマ市民の自業自得

    • +7
  4. 権力者の公開処刑は、一般市民にとっては、娯楽の一つだったということでしょうね

    • +4
  5. 何が怖いって古代の人間と変わりないって事
    しょせん人間は人間なのね

    • +1
    1. ※9
      考えてみると、全く同じ『人類』だからね?
      現在は昔よりも、電気とか石油とかを沢山使う様にはなったけれど
      その他の点は、ほとんど変わっていないハズだよ?
      (もし5,000年前の人が群集の中に居ても、誰も気に留めないと思う)

      • +4
  6. セイヤヌスの一族郎党が粛清された中、長女と幼い弟(次男)の最期はあまりに惨くて、改めて泣いた。
    その所業がしょじょ(この漢字が禁止?)神の祟りを恐れてのものならば、その祟りの数億倍の罰を受けていますように。
    タキトゥスらが記した記録により、古今東西心を痛めた多くの人が書き残しています。
    辛くて書けないので調べてみてください。

    • -1
  7. 元々処刑される人自身が犯罪者とか、かなり悪どい事をやった人であれば仕方ないかな?とは思うけれど、中には余り罪も無い様な人も当時の権力者から邪魔者扱いされて、この階段を転げ落ちた人も居たのだろうな。まあ、文字通りの転落の階段だった訳だ。

    • +2
    1. >>11
      全く権力に絡んでいない、結婚前の娘や十に満たない息子も処刑台で首を吊られて処刑されている、もちろん権力者に連なる者達も家族を含め処刑だからね
      処刑台に連れて行かれる権力者や権力者の家族を見ては喝采してたんだろうな

      • +3
      1. ※15
        >処刑台に連れて行かれる権力者や権力者の家族を見ては喝采
        ワイドショーで芸能人の誰それが離婚だ逮捕だとやいやい言ってる現代人とあんまり変わらないw

        ときには「人間がもっと『ほんとうの意味で生き』ていた、純朴で虚飾を知らない頃」みたいにヘンな理想化がなされる事もあるけど、実際はもっと、現在の人間そっくりの、なんというか「ああ、うん、あるあるw」って共感しちゃうような側面が、ローマ帝国時代の人々にもたくさんあったんだろうな

        • 評価
        1. ※16
          闘技場で戦士同志を戦わせて、皆で観戦するのが最大の娯楽だったり、人間に刃を潰した剣を持たせて猛獣と戦わせて、それを皆で楽しんだり…と、どこか神経がブッ飛んでいる所は有ったと思うけれどね。(そこまで行くと現代では絶対に無理だよなぁ?)テレビとか映画とかが無かった時代は、人が命を掛けて戦うのが最大の娯楽だったんだろう。(権力者の栄枯盛衰を外側から眺めるのも、そういった感覚の延長かもね?)

          • -2
  8. と言うか、現代の人間まで含めて扇情的な情報に踊らされる傾向があると思うのですよね
    例えば記事で紹介されてるティベリウス帝は皇帝伝で淫行と恐怖政治の代名詞の様な扱いされてますけど
    パテルクルスの著作では戦地に有っては兵士たちと苦楽を共にして山野に付す事も辞さない人物だと書かれています
    フィロンの著述では属州民を公正に扱った事が称えられています
    勿論二人の著述にはティベリウスを称える何らかの意図が有ったとも考えられますが歴史を見る限り彼が属州民と兵士にとても人気が有った有能な皇帝で有る事は明らかです
    タキトゥスは彼を陰険で見かけを装う事ばかり考えているかの用に書きますが、一方でとても熱心に職務をこなし、自らの権力を乱用せず賄賂なども嫌った人物である事は認めています
    スエトニウスはゴシップで彼を彩りましたが、一方で身分の低い病人の診療所を慰労し傷病の身で医者が止める中でも宴席では入り口で最後まで客を見送るなどとても円巨な人間である事も書き残しています
    そして碑文は彼が無気力になり乱工に励んだとされる晩年もパルティアの侵攻に敢然と反撃し国を守り抜いた事が示されています
    歴史の暗い面から目を背けろと言う訳ではありませんが、歴史の記述には
    耳目を集める陰惨な記述ばかりに注目する人の性向が有る事を考慮すべきかもしれません

    • +5

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