スペイン内戦中の1938年、ある兵士が銃で頭部を射抜かれ地面に倒れた。奇跡的に一命をとりとめた男性が2週間後に意識を回復した時、見える世界が激変した。
彼は、これまで見えていた景色がすべて逆さまになっていたのだ。天井が下にあり床が上にある歪んだ世界だ。
この男性の症例を調べた神経科学の研究者らは、実験では倫理的に不可能な、人間の心の仕組みを研究することができたという。
脳に銃弾が貫通するも、奇跡的に健康状態を取り戻した兵士
彼(患者Mとする)のこの症例が明らかになるまで、脳は厳密に境界がはっきりした、重なることのない個々の領域で構成されていると、神経科医たちは考えていた。しかし、患者Mの壊れてしまった感覚器官は、こうした考えに異議をとなえ、フスト・ゴンザロ・ロドリゲス=レアルという医師が、脳力学の新たな理論を展開した。
1936年から1939年にかけて起こったスペイン内戦は、全土を巻き込んだ残忍な紛争で、結果的にフランシスコ・フランコの独裁政権が樹立された。
当時、25歳だった患者Mは兵士で、1938年5月、バレンシア州レバンテの戦場で頭を撃たれた。
2週間の昏睡状態から奇跡的に目覚めた患者Mは、左目は見えず、右目もかすかに光を感じることができるだけだったという。
頭蓋に銃弾が貫通した穴がふたつあいた患者Mが、手術や特別な治療を必要とすることなく、元気になったことは、医師たちをかなり困惑させた。
photo by Pixabay
回復後、世界が逆さまに見えるという奇妙な現象を発症
その後、半世紀にわたって患者Mを観察し続けたロドリゲス=レアル医師は、困惑するような数々の症状を報告している。例えば、すべてのものが三重に見えたり、物の色が剥がれたように見えるといった症状だ。
なによりも奇妙だったのは、患者Mがまわりの世界をすべて逆さに見ていたことだ。
ロドリゲス=レアル医師は、自著『Cerebral Dynamics』の中で、患者Mが工事現場の足場で働く男たちが皆、逆さになって作業している姿を見たとき、自分は異常だと思い始めたことを明らかにした。
感覚の逆転現象にもかかわらず日常生活は送ることができた
患者Mのこうした感覚の逆転は、聴覚や触覚にも及び、まるで、両方の感覚が体の反対側から生まれてくるかのように、脳が知覚処理をしているような感覚だったという。このような重度の混乱にもかかわらず、患者Mはほとんど支障をきたすことなく、日常生活を送ることができた。
強い刺激に対して選択的に注意するなど、無意識のうちに対処法を発達させたおかげだろうと、ロドリゲス=レアル医師は考えた。
1954年にマドリッドで開催された神経精神医学会で発表するロドリゲス=レアル医師
脳の中でネットワークが再構築される
ロドリゲス=レアル医師は、『Cerebral Dynamics』の中である仮説をたてている。銃弾は、患者Mの脳の左頭頂後頭領域に相当な衝撃を与えたはずなのに、その損傷による重大な影響はほとんどなかった。
この結果から、脳は各機能に対応した個別の領域が厳密に分かれているわけではないのではないかというのだ。
1951年にロドリゲス=レアル医師がカハル研究所の雑誌のために描いた患者Mの脳のイラスト図
負傷のせいで患者Mの感覚が錯綜したらしいという考えに基づいて、神経機能は大脳皮質全体に段階的に分布していて、それが徐々に移り変わることによって、異なる領域が分離していくのかもしれないという仮説だ。
つまり脳のネットワークが再構築されていくというのだ。
ロドリゲス=レアル医師の娘、イザベル・ゴンザロさんによると、患者M(身元が明かされるこ
とは決してなかった)は、健康に長寿人生をまっとうし、1990年代後半に亡くなったという。
当時25歳だった患者Mは、その後60年もの間、逆さまの世界に違和感を覚えながらも、その特異な状況にほとんど悩まされることはなかったようだ。
さらに重要なことは、患者Mの逆さまの脳が、神経科学のそれまでの常識をひっくり返すのに役立ったということだろう。
References:Bullet Through The Brain Caused Spanish Soldier To See The World Backwards | IFLScience / Patient M: The man who started seeing the world backwards after being shot in the head | Science & Tech | EL PAIS English / written by konohazuku / edited by / parumo
追記(2023/05/28)誤字を訂正して再送します。
あわせて読みたい
脳を半分切除しても普通に生活を送れる人がいる。その理由が明らかに(米研究)
頭に鉄棒が貫通したものの奇跡の生還。だが大幅に人格が変化した神経科学分野で最も有名な「フィネアス・ゲージ」
脳を肉体から切り離しても意識は維持するのか?
脳を損傷してから才能が開花した10人の天才
全てが上下逆さまに見える珍しい脳症状を持つ女性
コメント
1. 匿名処理班
Mさんすごいね。生還したことも順応できたことも結構長生きしたことも。
2. 匿名処理班
ロドリゲス=レアル医師はは
ロドリゲス=レアル医師はの
置き換えしくじったな?
3. 匿名処理班
これはある程度、順応できる。
彼の後からだが逆さメガネ👓の実験で試されている。
細部が見えるようになったり視力が戻ることはないが、逆さの世界には慣れる事が出来る。
知られているように網膜に映る像は逆さまだから。
もし今なら慣れない場合でもこのメガネをかければいい。
4. 匿名処理班
「脳の一部が損傷しても、周囲の残った組織が損傷箇所の機能を補間して脳機能を修復していく」て話は聞いた事あったけど、こんな昔からその実例が観測されてたんだな
5. 匿名処理班
タフだなぁ
どんな人間でも同じ様に対応して生きて行けるんだろうか
6. 匿名処理班
弾丸が頭を貫通しても85歳まで生きれるのか...
7. 匿名処理班
「神経科学のそれまでの常識をひっくり返すのに役立ったということだろう」ほど他人事に聞こえるセリフもないだろう。
8. 匿名処理班
ロドリゲス医師、黒板に男性のアレ書いてて草
ちゃんとやってくださいよ!
9. 匿名処理班
М氏の順応力がすごいと思う。
私なら精神を病んでしまうと思う。
10. 匿名処理班
人間は〜とか一括にするのは違うと思うな
ランボーのようにタフなやつもいれば子犬のように弱々しいやつもいる
人に依るとしか言えんよね
11. 匿名処理班
Mさんもすごいけど、おそらくフランコ政権側で軍人年金があったからこその長寿なのかなと思う
だから何ってわけじゃないけど
12. 匿名処理班
俺たちが認識してる「普通」は脳の正常活動のたまもので、なにかアクシデントがあったらどうにでも変化する紙一重の状態なんだな
あえてわざと普通や常識を違う角度で見る訓練してみるのもいいことあるかもな
13. 匿名処理班
ロバート キャパの「崩れ落ちる兵士」が撮影された年じゃん。
14. 匿名処理班
火の鳥の復活編元ネタや。。。
15. 匿名処理班
> 左目は見えず、右目もかすかに光を感じることができるだけだった
> すべてのものが三重に見えたり、物の色が剥がれたように見えるといった症状
> まわりの世界をすべて逆さに見ていた
これ視力が低いから奇妙な視界に適応できたのでは?
16. 匿名処理班
これは脳のリソースをかなり使うはずだから何らかの体調悪化があると思う
たとえば、体温調節が上手くできなくなるとか、
発達障害ぽくなるとか、自己免疫疾患を発症するとか だけどね
(ソース自分)
17. 匿名処理班
今までの脳科学の常識も患者の視覚もひっくり返ったってことか
18. 匿名処理班
生まれつき上下逆さまの人は一生気付かないのかな。
19. 匿名処理班
ほええ〜
自分なら発狂しそう
20. 匿名処理班
>>4
小さいころ頭ぶつけて言語障害残ったけど、小学校高学年上がるころには見た目は健常者と殆ど変わらないところまで回復したな。ただ時々言葉がある単語だけうまく発音できなくなる時があるので会話は苦手。
21. 匿名処理班
>>6
うちの曾祖父さまも、日清戦争で頭ぶち抜かれても生還した上に、特段の後遺症なしで95まで生きてたよ
こっちの場合は貫通じゃなくて、脳内に残ってた弾丸を摘出したらしいけど……なんにせよ人体の神秘だよね
22. 匿名処理班
仮面の軍勢?
23. 匿名処理班
左目は見えず右目はかすかに光を感じるだけ、というのは昏睡から目覚めた直後の話だと思ったけど、最終的に視力はどこまで回復したんだろう?
24. 匿名処理班
>>22確か平子がそんな能力だったよな