1914年から1918年にかけて人類史上初の世界大戦が行われた。あれから100年、一世紀を経た今も、その戦いが残した爪痕は皮膚に残されたアザのように大地に刻まれたままとなっている。
アイルランド人写真家マイケル・モール・シールは、第一次世界大戦の戦場となった場所に赴き、今現在の姿を写真に残した。この大戦の傷が完全に癒えるのはもうすこし時間がかかりそうだ。
1.ソンムの戦い、フランス
1916年7月1日から同11月19日にピカルディ地方を流れるソンム河畔の戦線において展開されたソンムの戦いは、最も残酷な戦いの一つで知られている。写真では十字に交差している溝の線が見え、大砲のクレーターも確認できる。これは小さなくぼみに繋がっており、そのエリアで、何百万人の死者を出した。
2.メッシネスの戦い、ベルギー
1917年4月5月のニヴェル攻勢の失敗により、イギリス軍が弱体化したフランス軍の守るため、ドイツ軍に対し攻撃に出た。この戦いは5万人以上のも犠牲者を生んだ。
3.ヴェルダンの戦い、フランス
この地も最も激しく長引いた大戦跡地の一つである。ドイツ帝国は膠着した戦況を挽回すべく、参謀総長エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの発案により目標をパリへと続く街道にあるヴェルダンに定めた。ここで大量の損害をフランスに与えることにより、フランスが戦争を継続できなくなるよう企図したのである。
1916年2月21日にはじまり、その後約11ヶ月にも及ぶ膠着状態が続いたが、この戦いを消耗戦と理解しないヴィルヘルム皇太子はヴェルダン攻略に固執した。この戦いの最中に東部戦線でのロシア軍のブルシーロフ攻勢やイギリス軍によるソンム攻勢が始まり、ドイツ軍はそちらの方に戦力を回さなければならなくなりヴェルダン攻略は中止された。両軍合わせて70万人以上の死傷者を出した。今日では、農地として使われている。
4.ノーマンズ・ランドのサッカーボール
ノーマンズ・ランドは、軍事対立の中間の、いずれの勢力によっても統治されていない領域を意味する。第一次世界大戦中に成立した言葉である。
この写真にあるサッカーボールは、第一次世界大戦を象徴するアイテムの1つで、イギリス軍LIR(ロンドンアイリッシュライフル)がドイツ軍を攻撃する際に用いたボールである。ここで彼らは実際にボールを蹴り、戦いを始めた。そのキックオフとともに1915年9月25日、ノーマンズ・ランドで戦いを仕掛け、彼らはドイツ軍の拠点、ローズの街に攻撃をしたのであった。
5.ダム通り、フランス
ここは3つの大きな戦い(1914年、1917年、1918年エーヌ会戦)が行われた場所である。2番目の戦いであるニヴェル攻勢では、開戦初日にフランス軍から4万人もの死者を出す激しい戦いとなった。
12日間の交戦後、フランス軍27万1千人、ドイツ軍16万3千人の命が失われた。この結果、フランス軍人ロベール•ニヴェルは国民から非難され、失脚した。
6.ロッホナガー・クレーター、フランス
1916年7月1日7時28分、イギリス陸軍は地下道に仕掛けた24トンものアンモナール爆弾を破裂させた。この爆破音はイギリスにも届いたと報告されている。上空から爆発を目撃したイギリス陸軍航空隊第3飛行隊のルイス少将は次のように、当時のことを振り返った。
「大地全体がうねり、閃光が発したと思った。そして巨大な柱状の物が空に舞い上がった。強烈な大音響は全ての銃声をかき消し、残響の中、機械が倒れていくのがわかった。その土煙の柱はさらに高く上がり、1200メートル程まで上昇した。空に大きなイトスギのような形をしたものが浮いているように見えたのだが、そこから土や残骸が落ちてきた。」
この爆発により陥没した地面のクレーターの深さは、徐々に浅くなってきているものの、現在でも約21メートルはある。
7.ビュット・ド・ヴォクワ、フランス
ここにあったかつて小さな村は、戦略的に極めて重要な場所であり、531の地雷が埋め込まれていた。そしてその地雷が、この地を崩壊に至らしめた。60トンの地雷は教会と108人を吹き飛ばし、戦いが終わった頃にはこの村は原形をとどめることはなかった。フランス軍、ドイツ軍合わせて8千人の死者が出たと推測されるが、遺体が発見されることは決してなかった。
8.イゾンツォの戦い、イタリア
1915年6月から1917年11 月にかけて、スロベニア西部からイタリア北東部にかけて流れるイゾンツォ川周辺では、イタリア王国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍が激しい戦いを行っていた。その戦いは12回にもおよんだものの決着がつくことなくイタリアは30万人、オーストリアとハンガリーは合わせて20万人の膨大な死者を出すことになった。
9.ベローの森、フランス
ここは第一次世界大戦において、アメリカ軍が最初に戦闘を開始した場所である。1918年6月に始まったベローの森の戦いでは、1811人ものアメリカ兵士が亡くなったが、海兵隊がドイツ軍を森林から追い出すという成功を収めている。
10.ガリポリの戦い、トルコ
オスマン帝国(現トルコ)占領のために、1915年連合軍はガリポリ半島に上陸した。短期決戦を想定していたがその戦いは8ヶ月にも及んだ。連合軍は大きな損害を出し、作戦は失敗に終わる。
この作戦失敗の影響は大きく、当時のイギリス首相アスキスの自由党は終焉となり、同時にイギリス海軍本部とウィンストン・チャーチルも失脚した。上の写真のように、Vビーチからはセッド・エル・バー・ケイル城が見る事ができる。
11.マスリアン湖、東プロシア(ポーランド)
1914年フランスを支援するために、ロシアはドイツと開戦する。始めは劣勢であったドイツ軍だったが、マスリアン湖の戦いでは次第にロシア軍を圧倒し始める。結果、戦いは長期化し、ロシア軍にとって痛烈な敗北となった。
via:io9・原文翻訳:Aki
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コメント
1. 匿名処理班
金属探知機で探すと当時の金属片が見つかる。多くはWW2だけど、WW1の物も発見されてる。
2. 匿名処理班
ここで戦争が起きたとは
信じられないくらい綺麗な場所だった
非業の死を遂げた人達よ
静かに眠れ・・・・
3. 匿名処理班
数字と跡地でしか想像ができない身としては悼むことすら軽率に思えて憚られる
でも、多くの友、妻子を持つ者が国のために戦いに駆り出されたのだと思うと陰鬱な気分になるのは確か
今地球上で小競り合いをしている多くの国々も、どうにかして仲良くできればいいんだけどね・・・そうさせない何かがたくさんあるんだろうね。残念だよ
4. 匿名処理班
近所にも古戦場跡あるけど、全部街になってしまった
これが日本のいいところだけど、その分多くの戦争遺跡も
消滅しているし、数年後戦争あったこと自体忘れるだろうな
5. 匿名処理班
WW2の戦跡すらだいぶ自然に戻ってきているのにWW1の戦跡がまだ残ってることに驚いたわ…
6. 匿名処理班
戦争は死しかうまないよね…
7. 匿名処理班
7番目の写真のくぼみ部分にはかつて村があったのか・・・。
8. 匿名処理班
ロッホナガークレーターってはじめて知った。すごいな。
9. 匿名処理班
近代化の走りで、この威力
万が一現代核兵器が使用されたらいつまで残るのか
10. 匿名処理班
そうか6月開戦だしもう100年か
11. 匿名処理班
WW
では無いが、近くに大東亜戦争中の戦闘機・爆撃機用の
掩蔽壕・えんぺいごう
が残っている所がある。
爆撃機から護る為、厚さが数メートル有り撤去するのに多額の費用が掛かる為70年近く其の儘だ。出来れば土地を購入したい。
12. 炎蹄
全ては正義の名のもとに
13. 匿名処理班
途中からただの綺麗な風景写真になってないか
100年前に多くの人が死んだとは信じられない場所だ
14. 匿名処理班
ソンムの戦いで何百万の死者って盛りすぎ
15. 匿名処理班
埋設された地雷はすべて撤去されてんのかね?
取りこぼしがありそうで怖い……
16. 匿名処理班
いつまで繰り返すんだろうな。
人が人であるかぎり終わらないのかな。
17. 匿名処理班
戦争で失われたリソースを他に回してればもっと楽にみんなハッピーになれただろ、って思っちゃうよね……。
18. 匿名処理班
※17
まるで人間以外の動物は闘争を行わないかのような物言いだ。
19. 匿名処理班
※19
いやそれはうがちすぎだろ。
20. 匿名処理班
大阪の淀川河畔の豊里地区に爆弾池というのがある。
空襲の跡が池になったらしい。
21. 匿名処理班
ソンムの戦い、wikipeには死者百万以上とあるな。100年前の局地戦(?)にしては凄い規模の被害者数だ。
22. 匿名処理班
夏草や兵どもが夢の跡
23. 匿名処理班
※22
wiki見たならよく読んで、死者は両軍合わせて約30万
兵士数百万が一気に死んだら戦争終わるわ
24. 匿名処理班
こういうの見るとやっぱドイツってすげぇってなるな
25. 匿名処理班
※17
人間が生物である限り、そして「価値観」がどんな些細なことでも2つ以上存在する限りは…
26. 匿名処理班
安定のヨーロッパ
27. 匿名処理班
階級は少将じゃなくて少尉ですよ。
将軍クラスは現場へ滅多に出向かない、特に初期の空軍……英陸軍航空隊(RFC)となると