この画像を大きなサイズで見るモンゴルに広がる世界で5番目に大きな砂漠「ゴビ砂漠」には、万里の長城にも似た、全長321kmもある謎の建造物「ゴビの壁」がある。
西夏王朝(1038~1227年)が築いたとされる「ゴビの壁」は、中国からモンゴルにかけて横断しており、これまでその用途や歴史的背景はほとんど解明されていなかった。
外敵の侵入を防ぐ防壁だと思われていたが、最新技術を駆使した国際研究により、王朝が地域統治の為、資源管理や移動統制の役割を担っていた可能性があるという。
まるで万里の長城、砂漠を貫く「ゴビの壁」の謎
「ゴビの壁」は、ゴビ砂漠の高地に321kmにわたって築かれた土・石・木の構造物だ。
それを築いたのは、1038年~1227年にかけて現在の中国西北部を支配したタングート族の王朝「西夏(せいか)」である。
東アジアの長大な防壁といえば、まず思い浮かぶのは万里の長城だろう。現存する部分だけで6,259.6kmに及ぶこの長城は、秦をはじめとする中国王朝が外敵の侵入を防ぐために作り上げた。
それゆえにゴビの壁もまた防壁の類だと考えらえてきた。
ところが、このほどイスラエル、ヘブライ大学をはじめとする国際研究チームは、衛星画像の分析や現地調査を通じて、「ゴビの壁」が統治のため、駐屯地や関所などで構成された行政インフラの一部だったことを明らかにしている。
この画像を大きなサイズで見る辺境統治のための行政インフラだった可能性
現地の発掘調査では、紀元前2世紀から19世紀までの陶器・貨幣・動物の骨など、さまざまな遺物が出土している。
このことから、ゴビの壁はなんらかの形で長期間にわたり使用され続けたらしいことがうかがえる。
だが、放射性炭素年代測定と発掘された貨幣に基づくなら、本格的に使用されていたのは、11世紀から13世紀にかけての西夏王朝の時代だ。
ゴビの壁の所々に存在する駐屯地は、大きさや作りには違いがあるものの、その多くは長方形のレイアウト・周囲をかこむ壕・角櫓(すみやぐら)といった共通の特徴がある。
こうした建築物には、厳しいモンゴルの自然環境に対応するため、高度な土木・建築技術が用いられている。
たとえば、ある区間の壁は、突き固めた土が木材や石で補強されていた。
また別の区間では、あえて険しい地形が選ばれている。付近に平地があるのに、わざわざ山の尾根を選んで黒い石壁が築かれているのだ。
この画像を大きなサイズで見るこれは防御力を高めるとともに、威圧感を演出したり、技術力の高さを誇示したりするためのものだろうと研究チームは考えている。
さらにゴビの壁は、資源の確保と物流においても重要な役割を果たしていたようだ。
古代の井戸・水源・木材として利用できる樹木の位置をマッピングしたところ、壁や駐屯地がそうした資源の位置を踏まえて作られていることがわかったのだ。
研究チームは、こうした特徴から、ゴビの壁はおそらく軍事的な施設ではなく、人の移動や物流を管理し、徴税を行うための行政拠点だったのだろうと考えている。
壁を利用したユニークなその手法は、中国北部に存在した契丹人の遼(916~1125年)や女真族の金(1115~1234年)といった王朝のそれに似ているが、西夏のものはモンゴルの過酷な地形に適応している点で傑出しているという。
こうした発見は、モンゴルや中国の王朝に比べれば目立たない西夏王朝にも、辺境を統治する高度なノウハウがあっただろうことを示すものだ。
この画像を大きなサイズで見るモンゴルの襲来を防げなかったゴビの壁
それがいわゆる防壁ではなかったことは、1226年に侵攻したチンギス・ハーンの軍勢がこの壁を歯牙にもかけなかったことからもうかがえると、エルサレム・ヘブライ大学のギデオン・シェラフ=ラヴィ教授は語る。
『元朝秘史』(中世モンゴルの歴史書)には、西夏討伐の記述の中でこれらの防壁に触れてない。これは、当時それが大きな障害とは見なされていなかったことを示すものだ
モンゴル軍の侵攻を受けた西夏は、1227年に滅亡。「ゴビの壁」はやがて荒廃し、砂漠に埋もれていった。
その遺構が再び発見されたのは、それから数世紀後のことだ。
この画像を大きなサイズで見る砂漠で国家を維持するための工夫
面白いことに、壁の遺構からは清朝など後の中国王朝の貨幣も発見されている。
だが研究チームは、これが清の時代まで壁が使われ続けていた証拠だとは考えていない。
おそらくは、これらは後世の旅人や地域住民がこの地を通過したり、跡地を再利用したりした痕跡であり、本来の意味でゴビの壁が機能していたことを示すものではないという。
いずれにせよ、今回明らかになった「ゴビの壁」の真実は、長らく忘れ去られていた西夏王朝の洗練された知性と組織力を現代に伝えている。
シェラフ=ラヴィ教授は、「この壁は移動や貿易、領域支配のために設計された動的な仕組みであり、従来の“固定された防衛線”という認識を見直す必要がある」と指摘している。
この研究は、古代帝国が自然環境にどう適応し、いかにして辺境を統治していたかを理解するうえで大きな手がかりとなる。
この研究は『Land』(2025年5月16日付)に掲載された。
References: DOI: 10.3390/land14051087 / Secrets of the mysterious Gobi wall uncovered
















迷わないためのガイドライン(立体)なんだろうか
道でないのはやっぱり道だと厳しかったのかもしれない、視認性なんだろうな
井戸に辿り着けないと馬も困るよね
巨大もぐらが移動した痕跡なのよなあ
もう少し具体的に書いてくれないとどういうふうに使われてたのか分からない
ランドマークとしての機能は有っただろうね
砂漠を渡る交易が大事な存在だから彼等を庇護する目的も有ったんだろう
想像なんだけど、夜間は火を灯して灯台みたいに使用していたかも
へええ・・こりゃ驚いたな。
もう二十年前かな、2ちゃんでこれと全くおなじ書き込みしてた人がいたわ。
異様に詳しいから研究者なのかと思っていたけどやっぱりそうだったんだな。
その人曰く、万里の長城も基本同じもので、軍事の際の防衛ラインという側面より、平時の交易拠点としての建設意味の方が強い、と。
西方からの珍品というのは中国王朝にとって経済以上の意味を持ち、要は冊封関係で近隣諸国に分け与えて臣従関係を築くための重要アイテムだから、外交の根幹を成す文物それらが勝手に流入して物がデフレになると安全保障そのものが崩壊する。
商人にとっても、遠くから危険を冒して高いコストを払ったものが安くなるのは困るし、砂漠の真ん中で取引をして税関を免れても、捕縛されたり逆に武力で奪われたり良いことはない。だから壁を築いて交易のための障壁を築いたという。
それは日本の高地性集落も同様だったはず。
日本の渟足柵とか多賀城もそんな役割だったみたいだよね。
要は街道なんだけど、ローマ街道のようなガッツリ整備された道路ではない。
通商隊のためのルート目印だったり休憩場所だったり。
日本モンゴル学会コラム
「チンギス・ハーン長城」報道の顛末
この記事に地図あって、左の方にある短いものがゴビの壁だと思う
駐屯地 42°14’13.3″N 103°17’19.8″E
駐屯地 42°20’44.2″N 103°44’17.5″E
駐屯地 42°28’23.5″N 104°19’25.8″E (無関係だと思う)
総延長737キロもあるチンギス・ハーン長城は11〜13世紀の契丹・女真の時代に建造されたものだそうで目的も同じみたいですね