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この画像を大きなサイズで見る南太平洋、タヒチから南東へおよそ2000km行ったところに、火山性の島「ピトケアン島」がある。
イギリスの海外領土で人口は50人足らず。電気も限られ、ニュージーランドとの船の行き来も1年にたった4回しかない。諸島の周囲300 kmには他に有人島は無い。
この孤島に人が住み着くようになったのは、「バウンティ号の反乱」がきっかけである。現在ピトケアン島に住んでいるのは、この反乱に参加した水兵の子孫たちがほとんどだ。
反乱者たちの子孫が住む島「ピトケアン島」
作家のブランドン・プレッサーは著書『The Far Land: 200 Years of Murder, Mania, and Mutiny in the South Pacific(遥かなる大地:南太平洋の殺人、マニア、叛乱の200年)』の中で、はこの島には注目すべき歴史があると書いている。
この島の48人の住人のほとんどは、1789年に起こったあの有名な「バウンティ号の反乱」で船を乗っ取った反乱者たちの直接の子孫なのだ。
現在の島民は、島で採れた果物や野菜、魚介を食べているが、食料のほとんどは3ヶ月ごとに貨物船で運ばれてくる缶詰だ。
今にも壊れそうな家にはドアもなく、木や雑草が伸び放題になっている。12歳までの子どものための学校がひとつあるが、現在は生徒は3人しかいない。
現在の島には、反乱軍のリーダーだったフレッチャー・クリスチャンの子孫と、ウォレンという船乗りの子孫の、ふたつの系統の家族が住んでいる。
両者の家系は密接に絡み合っているというのに、長い間些細なことで反目を続けていて、互いに無視し合っているという。
たった1台の発電機しかない孤島
ピトケアン島は文明社会から遠く離れているため、プレッサーはここを訪れるために、100万ドルの保険に入らなくてはならなかった。
ここには小さな診療所がひとつあるだけで、現在は引退したオーストラリア人医師がひとり常駐している。
この医師は、老後を異国で過ごしたいと希望した珍しい移民だ。ある住民が虫垂炎になったときは、病院に運ばれる前に死んでしまった。その後、島民全員が島外で、盲腸の予防切除を受けた。
毎日午後10時から朝6時までは、電気が使えない。たった一台しかない発電機をディーゼルの節約のために止めてしまうからだ。
WiFiと携帯電話は、最近使えるようになったが、外の世界との連絡は、いつもVHF無線を通して行っている。
ホテルやレストラン、バーなどはないため、訪問者は地元の人の家に泊めてもらうしかない。プレッサーが滞在したときは、地元の夫婦が自宅の居間で酒をふるまってくれたという。
しかし、数年前、島民自身が新たに観光収入に興味をもつようになり、旅行作家であるプレッサーをマーケティングコンサルタントとして雇った。
この画像を大きなサイズで見る観光業は、島民にとってまったくの未知の概念というわけではない。
プレッサーをもてなした住民のスティーヴ・クリスチャンとその従妹である妻のオリーヴは、フレッチャー・クリスチャンの子孫ということで、ピトケアンの住民をある種「博物館の人々」とみなす歴史家の間で長い間、関心を集めてきたとプレッサーは書いている。
クリスチャン夫妻は、ロンドンで王立地理学会のもてなしを受け、バッキンガム宮殿でお茶を飲んだこともある。
バウンティ号の反乱とは?
1788年1月、英国海軍のブライを船長として、バウンティ号はタヒチに向けてイングランドを出港した。
パンノキの積み荷を受け取るためだったが、ブライは、部下をいじめ、しょっちゅう鞭打つような男として知られていた。
出発が遅れたため、全長27メートルのこの船は、冬の間に南米のケープ岬を通過することができず、ブライは1万6000キロも遠回りになるアフリカまわりに航路を変えた。
46人の乗組員は、荒波にもまれ、蛆虫のわいたビスケットや塩漬け肉でなんとか飢えをしのいだ。
10月にタヒチに着いたとき、船は地元の人たちに歓迎され、美味いフルーツをふるまわれた。だが、不自由な航海の不満がたまっていた乗組員たちが、地元の女性たちと体の関係を持ち始めると、バウンティ号の運命は破滅へと向かい始めた。
血塗られた歴史
たちまちイギリス人である乗組員たちは、タトゥーを入れ、裸で踊る現地の人間になった。ブライだけは、ジャマイカへ積み荷を運ぼうと決めていて、誘惑に負けなかった。
1789年、ブライは乗組員たちを海へ戻そうとしたが、彼らは島での生活を捨てきれなかった。
ブライから不当な扱いを受けるのに嫌気がさしていた乗組員のクリスチャンは、船に積んであったマスケット銃を奪うと、勝手に指揮をとった。
ブライと18人の忠誠派たちは予備のボートに無理やり押し込められ、太平洋に押し出されてしまった。ブライはこの小さな船で指揮をとり、インドネシアまでの6400キロを航海するという驚異的なことをやってのけた。
一方、反乱分子側のクリスチャンは、奪ったバウンティ号に家畜や友好的なタヒチ人の男30人、女9人をを乗せて、太平洋の楽園を確立すべく、トゥブアイ諸島へと出発した。
しかしすぐにクリスチャンは、槍で武装した戦士たちに監視された、シラミと蚊のはびこるジャングルで新たな人生を切り開くことかいかに難しいか、反乱に加担した仲間たちがいかに怠惰であるかを知ることになった。
この画像を大きなサイズで見る最終的に、クリスチャンらはピトケアン島に戻ってきて定住した。
この隔絶された無人島には、真水や耕作に適した土地があり、理想的なように思われたのだが、3年もたたないうちに反乱分子のほとんどが死んでしまったという。
クリスチャンら数人も、乗組員と共に連れてきたポリネシア人に殺され、内輪もめで殺されたものもいたという。
1800年には、バウンティ号の生き残りは、アレクサンダー・スミスひとりとなった。
彼はその後8年間、タヒチの女性たちと、亡くなった反乱分子たちの残した子どもたちを含めた大家族の長として平和に暮らした。
1808年、アメリカのアザラシ漁船が島にやってきたとき、ジョン・アダムスと名乗るイギリス人がひとりだけいて、ピトケアンの海岸沖の浅瀬にバウンティ号が座礁していると認めた。
バウンティ号の反乱者のスキャンダル
バウンティ号の発見は一時的に世界的なニュースになった。だが、次にピトケアン島がニュースになるのは1998年のこと。
フレッチャーの8代目の子孫で、スティーヴとオリーヴの19歳の息子ショーン・クリスチャンが、11歳の娘に性的虐待をしたとして、ここを訪れたひとりの聖職者が告発したのだ。ショーンは自分と少女は愛し合っているとして、告発を否認しなかった。
最終的に、13人のピトケアン島の住民が、児童虐待、セクハラ、性的暴行などの罪で告発され、6人が投獄された。
スキャンダルの後、島民たちはとくに反省することもなく、若い娘たちの証言も不利な証拠とはならず、ただの”寝室の歴史”になっただけだったという。
ピトケアン島の住民たちは、性交同意年齢はせいぜい12歳くらいだと思っていたようだ。現在、島の50人もいない住民たちのほとんどが、なんらかの親戚つながりがある。
このスキャンダルによって、島民の多くが外の世界から干渉されたくないと思っていることがはっきりした。プレッサー自身もピトケアン島に到着してすぐに、機嫌の悪い地元住人にこう言われた。
「ここにいる間は俺に話しかけたり、近寄ったり、見たりしないで欲しい。わかったか?」
長年のパラノイアに陥る子孫たち●
さらに、彼らは観光収入に関心はあっても、外部の人間のことなど興味がないようだということもわかった。
島の人間が偽善者と呼ぶ、ホスピタリティ哲学をおしえてくれる者もいた。その気がないのに歓迎の意を見せるこの島独特の社交術だ。
プレッサーが島に到着したとき、彼を下ろした貨物船に向かってスティーヴがこう叫ぶのを聞いたという。「あの野郎!」
でもこれは妙だった。貨物船はピトケアン島にとって、唯一の外界との接点なのに、スティーヴは明らかにその存在に腹をたてていたという。
プレッサーは、1ヶ月ほど島に滞在したが、住民はよそよそしく、たいていはひとりで過ごしていたという。
プレッサーは、最初の反乱者たちが、長期にわたるパラノイアに苦しみ、その結果、互いに銃やハンマーで殺し合ったことを書いている。
プレッサーは孤立しているいうことが、いかに疑心暗鬼を助長させるかを痛感したという。
References:Current-day island life of ‘Mutiny on the Bounty’ descendants / written by konohazuku / edited by parumo














住民がそれだけしかいないと混血でだんだんやばくなるのでは…
※1
次に話題になるときはそっち方面の話題かもしれんなぁ。
※1
すでにヤバくね?色々な意味で
気がついたら全滅してそうだな
そんな住民が蔓延る島なんて仮にホテルっぽいのが出来たとしても誰も行かんだろうな…
1人にされてるだけならまだマシなのかもそれない。普通に危険すぎる
センチネル島の上陸できるバージョンか。
てか、そんだけ外の人間を排斥して新しい血を入れないから
新しい歴史が作られず、血も伝承も濃いまま
パラノイアなんじゃないの?
3000人居たら今頃、「知らね」「ああ、あったらしいね」
って感じだと思うぞ?とっくに忘れ去られて
記事にすらなってないかも
一応観光もできたよな
ひぐらしっちまわないように祈る。
>食料のほとんどは3ヶ月ごとに貨物船で運ばれてくる缶詰だ。
自給自足もできていないということ…?
おばちゃんも妙に太ってるし不思議がたくさん
ピトケアン諸島少女性的暴行事件の後、
ながいこと興味本位のテレビ取材を拒んでたそうだけれど
世界不思議発見で日本のテレビカメラが入ったんだよな。
暴行事件の事はノータッチで。
気味の悪い島だ。自分がこの島に生まれたら、早々に外の世界へ逃げてやる。
て言うか、まだこの島に人はいるのか?何でこんな不便な島を捨てて、便利な土地へ移らない?
他所者に対する排他的な態度といい、代々近親婚を続けたり性的にルーズだったり、横溝正史の怪奇ミステリーかと思うわ。
※12
君が自分の世界を「世界のすべて」と思うように
閉鎖空間で暮らす彼等も自分の世界が「世界のすべて」なのさ
>>21
自分のいる場所を「世界の全て」と思ってたのは、子供の頃だけなんだが?
ブライ船長凄すぎない?
恐らくろくな装備もない状態で放り出されて仲間を指揮して小舟で6400キロを航海・・・
性格はきついけどめちゃくちゃ有能だったんじゃないかな
※13
船員に厳しかったのも船員たちの怠惰な性格を見抜いてたのかもね。
船の上だとちょっとした手抜きや失敗が命取りになることもあるだろうし。
※13
そうね、結局物事って両方の側面から見てみないと、意外と偏って伝わることって多いし。
航海の事実から無頼船長が有能だったことは間違いないし、だからこそついてった人がいたんでしょう。
一方で反乱した側は行き当たりばったりでいい加減だったから死んだようにしか見えない。
でもまた、それも片面だけの見方かも知れないけどね。
※13
船乗り・海軍士官としてのウィリアム・ブライが有能なのは間違いない
名高い航海者であるジェームズ・クック最後の航海において航海長を務め、コペンハーゲンの海戦ではネルソン提督に特に称賛されている(僚艦が座礁する狭い水路を安全に航行したことと、艦隊司令官の命令を無視して次席司令官であるネルソンの命令を優先させて海戦を勝利に導いたため)
一方オーストラリア植民地の総督になってからまたもや反乱にあい捕縛の憂き目にあっている
海でも陸でも反乱を起こされ後援者も擁護できず事実上の退役に追い込まれた
何回か映画化してるよな
見た覚えがある
※14
1962年「戦艦バウンティ」でクリスチャンを演じたのがマーロン・ブランド。ブランドはタヒチのロケで現地タヒチの女優と恋愛して3回目の結婚。そして生まれた娘がたいそう美人で17年後ボーイフレンドとお家デートしているときに ブランドの最初の結婚で生まれた兄がボーイフレンドを射⁂する。彼女は亡くなったボーイフレンドの子を出産したが精神を病んで自タヒ。 と悲劇が続きました。
閉ざされた島の闇は根深い、ホラー映画が作れそうなネタはごまんとある模様
南国の楽園だよ~
最初は笑顔で歓迎するが次第に人種偏見などでいさかいになり、最終的に・・って感じだろう。貞操観念からして無法地帯みたいな感じだし。
1998年の話は、発覚したのが聖職者ではなく、研修のために渡航していたイギリス人の婦人警官じゃなかったけ?
性交同意も話も、もともと中世ポリネシア文化社会では標準的な基準が12歳ぐらいで、12~15歳ぐらいで初産する時代の話で、現代と情報が隔絶しているから現代法というものが通用しないというか、そのことそのものを知らない。
こういう事情もあって投獄はされたが比較的、判決は甘かったとも言われている。
船長も船員もどちらも禄なもんじゃ無いな。