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戦いに負けたセルビア人兵士たちの頭蓋骨が埋め込まれたスカルタワー(頭蓋骨の塔)

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(著) (編集)

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ashclear/iStock
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 バルカン半島の中心部にあるセルビア南部最大の都市、ニシュには、400年に渡って続いたオスマン帝国の支配に抵抗したセルビア人の独立運動のシンボルとなっている塔がある。チェレ・クラと呼ばれるスカルタワー(頭蓋骨の塔)だ。

 この塔は、もともとは、戦いで命を落とした多くのセルビア人レジスタンスたちを称えるためのものではなかった。

 1809年、独立を求めるセルビア人とオスマン帝国の「チェガルの戦い」において、勝利したオスマン帝国側が、独立派に恐怖を植え付けるため、斬首したセルビア人兵士の頭蓋骨を使い952個もの頭蓋骨を埋め込んだものだったのだ。

Skull Tower Nis Serbia

セルビア帝国とオスマン帝国

 セルビア帝国が、オスマン帝国の手に落ちたのは14世紀後半のこと、皇帝ステファン・ウロシュ5世のときだった。

 ウロシュ5世はその優柔不断な言動や無能さのせいで、“弱虫ウロシュ”という恥ずべきあだ名をつけられた。内部紛争で帝国がばらばらになっていた頃、アジアやヨーロッパに勢力を拡大していたオスマン帝国の容赦ない攻撃を受け、セルビア各地はほとんど抵抗することもなく落ちて行った。

 ニシュの町が、最初にオスマン帝国に占領されたのは1375年。1443年になんとか町を奪還したが、1448年には再び陥落した。

 17~18世紀の間にトルコとオーストリア間で何度か支配が変わったが、占領されていた次の400年のほとんどは、オスマン帝国の支配だった。

 この時代、セルビア人たちは計り知れない苦しみに苛まれていたことが、通りすがりの旅人によって記録されている。

 16世紀、シレジア(現在のチェコ東部、ポーランド南西部)の旅人が、ソフィアからニシュへの街道筋で、バラバラにされた遺体が散らばる凄惨なシーンを目撃している。ニシュの町の入り口には、哀れなブルガリア人小作農たちの切断されたばかりの首がさらされていたという。

 初めてセルビア人とオスマン帝国の全面戦争が勃発したのは、1805年のIvankovacの戦いである。このときは、セルビア側が勝ち、オスマントルコ軍をニシュに退却させた。武勇やリーダーシップが証明された革命軍司令官のステヴァン・シニェリッチが、引き続き歩兵旅団の司令官に任命された。

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ミシャールの戦い。Afanasij Scheloumoff作(1930年代)

チェガルの戦い

 1809年、セルビアの抵抗軍10万が、ニシュの南の村に進軍して、6つの塹壕を掘った。一番最初に作られたチェガルの丘の最大の塹壕にシニェリッチは陣取り、ここから、セルビア側はニシュの要塞に何度か攻撃を仕掛けた。

 だが、そのたびに数で勝るオスマントルコ軍にはね返された。2ヶ月の戦いの間、シニェリッチらの隊はほかのセルビアゲリラ兵たちから分かれて、激しく抵抗した。

 しかし、オスマントルコ軍が塹壕に襲いかかり、包囲されたシニェリッチらは絶体絶命に陥った。圧倒的な敵に対して、シニェリッチは火薬庫めがけて銃を放ち、大爆発を起こした。このチェガルの丘の戦いは、トルコ側6000人以上、セルビア側3000人が命を落とす大激戦となった。

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火薬庫を吹き飛ばすステヴァン・シニェリッチ

敗北したセルビア兵の頭蓋骨で塔「チェレ・クラ」が建てられる

 戦いの後、オスマントルコの大宰相フルシッド・パシャは、シニェリッチやセルビア人兵士たちの首と皮を剥いだ遺体を、自国スルタンのマフムト2世の元へ送った。

 スルタンはこれを喜び、兵士らの首をニシュに送り返して、さらしものにする塔を建てるよう命令した。セルビア人たちに、二度と抵抗させないよう見せしめにするためだった。

 完成したスカルタワーは、高さ4.5メートル、952個もの頭蓋骨が4面にずらりとさらされた。地元では、チェレ・クラと呼ばれている。

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1863年当時のスカルタワー

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1878年のスカルタワー

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現代のスカルタワー

スカルタワーはセルビア人レジスタンスの象徴に

 1860年代になると、オスマン帝国の勢力は弱まった。ニシュの最後の統治者ミドハト・パシャは、この塔が、オスマン帝国の過去の残虐行為を思い出させ、恨みを煽るものだと気づき、残った頭蓋骨を塔から取り除くよう命令したが、塔そのものを破壊することはあえてしなかった。

 この時すでに塔は、セルビア人レジスタンスの象徴になっていたからだ。現在でも、それは変わっていない。

 月日が経つにつれ、多くの頭蓋骨は壁から落ちてしまっていた。遺族が埋葬のために持ち帰ったり、記念品として盗まれたものも多い。

 現在、塔の頭蓋骨の大半はなくなってしまっているが、50個前後は残っていて、ガラスに覆われ守られている。

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 塔全体は、小さな礼拝堂の中にすっぽりおさめられ、外観は教会のように見える。シニェリッチの頭蓋骨もこのガラスの中に安置されていると言われている。

Ćele kula – Skull Tower, Niš Serbia

References:Skull Tower / amusingplanet/ written by konohazuku / edited by parumo

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この記事へのコメント 28件

コメントを書く

  1. ガンズのアルバムジャケットみたいになってんなと思ったらもっといっぱいはまってた

    • +2
  2. >記念品として盗まれてしまったものも多い
    えっ

    • +17
    1. ※3
      エジプトのミイラ「とんでもない輩がいたもんだ」

      • +10
    2. >>3
      ヨーロッパ人とかは、わりとこういう事を平気でするよ
      カラパイアの過去記事を検索すれば、遺跡から物を記念品代わりに盗んで、盗んだ後に不幸が続いたので、盗んだ物のせいだとして勝手に郵送で送り返したりしてる記事を見つけることができると思う

      • +4
    3. ※3
      欧米だと人体コレクターが結構いるからね
      戦争なんかあると敵兵とか解体して持ち帰る習慣がある
      太平洋戦争中は戦利品として持ち帰られた日本兵の頭蓋骨が
      アメリカの雑誌の表紙を飾ってる

      • +4
  3. 戦争なんて絶対にしちゃいけないねぇ。
    ただ、この記事がセルビアに同情的なのはどうかと思う。いくらオスマン帝国の支配が過酷だからって武力で独立を目指すのはだめでしょ。それはもう戦争じゃん。当時のセルビア人たちは間違ってたし、独立戦争は恥ずべき黒歴史。

    • -49
    1. >>5
      世界史の市民革命や独立運動はほぼ恥ずべき黒歴史なのか…
      確かに交渉の場が整っているのに引き起こされる現代の武力衝突は超間違っている
      しかし身分制があった当時はそうだと言いきれない
      近代までの被支配者層は武装蜂起以外の抗議手段を持てず、己の命を危険に晒すことでしか物申せない身分だった。(日本も一揆と打ち壊ししかない)
      そして支配者層も領民の声をあまり聞かなくとも十分支配できた。ので、衝突は避けられるものではなかった
      このセルビアの人達を含め、数世紀に渡る庶民たちの大きな犠牲の上に生まれた民族の自覚や結束が、身分制を壊し、言論の自由や国民国家や民主主義、そして社会保障を生み出し今に繋がるので間違ってはいない

      • +20
    2. >>5
      言うだけなら簡単だけどね。負けた相手を煽る為にこんなもの作る様な人らがどんな統治をしてたのか。あなたの家族や友人がその犠牲になっても同じ事いえるなら本物だけど。

      • +12
  4. 今にもボヘミアン・ラプソディを歌い出しそうなフォーメーション。

    • +5
  5. その怒りはアルバニアにぶつけます

    • 評価
  6. オスマン帝国は恐怖で敵を支配するってのが好きなんだよなぁ。
    勢いがある時はそれで上手く行くけど弱体化が始まると積年の恨みが一気に爆発する。
    西洋に離されないよう軍備の近代化もそれなりに頑張ってた割にあっさりと瓦解した理由の一端。

    • +8
  7. >>オスマントルコの大宰相フルシッド・パシャ

    「大宰相」という呼称が正式名称であれば、大宰相の下に宰相という官位があったんでしょうな

    大将の上に上級大将という官位があるように

    • 評価
  8. ???「ほんならワイは敵兵串刺しにして並べたるわ」

    • +2
    1. ※14
      ヴラドさん(世)!?まずいですよ!

      • +3
  9. スレブレニツァの虐殺もあったしな

    • 評価
  10. なんか日本人とメンタル違いすぎ
    慰霊碑にしろや

    • -5
    1. ※18
      それ第六天魔王の前でも言えるの?

      • +3
  11. オスマン帝国は宗教を確かめなおしたらやはりイスラム教だったが、ターバンを巻くなど服装やその他文化的にはインドとも似た印象もあった。

    ベルセルクのクシャーンの支配者・ガニシュカも大量殺戮者だが、インドやペルシャの支配者の残虐さが個人として集約されたキャラクターという印象を、改めて抱いた。

    • -1
    1. >>19
      インドにはデリースルタン朝からムガル帝国までイスラム教の国が度々興ったのでその時代の文物にはイスラム的なものがあるのは当然だと思う
      ただターバンを巻く文化があるのは少数派のシク教徒で、インド男性100人いたらターバン巻いてるのは2人程度
      ヒンドゥー教徒や今となっては超少数派だが仏教徒もイスラム教に対しては色々思うところはあるはず

      • +3
      1. >>23
        あくまで現代インド人でターバンを巻くのはシク教徒だけで嘗てはインド人結構みんな巻いてたよ。
        シク教徒は宗教的な理由でターバン巻くから現代まで巻いてるけどヒンドゥー教徒やイスラム教徒は教義には関係無いからね。

        • 評価
  12. 魏の司馬懿も同じことしたな
    反乱を鎮圧したら街道に生首をしたっけ

    • +1
  13. ジンメンを思い出した。
    いやむしろ
    「外道!きさまらこそ悪魔だ!」
    の方かな。

    • 評価
  14. 京観が後の世で抵抗の記念碑になるというのも壮絶な歴史の流れだ…

    • 評価
  15. バルカン半島ってのは昔から戦争ばっかだったんだな・・・

    • 評価

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