この画像を大きなサイズで見る今から約7300年前、日本の鹿児島県の薩摩半島の南沖で、世界最大級の巨大噴火が発生した。
ほぼ前触れなく海底から噴き上がった噴火は、強力な地震と巨大な津波を引き起こし、大量の火山灰が大地を埋め尽くした。
九州南部などに暮らしていた縄文人は激減し、長い間、全滅したと考えられてきた。
だが、スウェーデンのルンド大学などの国際研究チームの新たな研究で、生き延びた縄文人たちが九州北部の沿岸へ移住していたことがわかった。
生存者たちは新しい人間関係を結び、独自の工夫で災害後の環境を生き抜いて繁栄していたのだ。
この研究成果は『Science Advances』誌(2026年10月14日付)に掲載された。
参考文献:
- How one of Earth’s worst volcanic disasters affected societies | Lund University
7300年前の超巨大噴火が日本の縄文社会を直撃
約7300年前、鹿児島県の薩摩半島から約50km南にある海底火山「鬼界カルデラ」で巨大噴火が発生した。
当時は縄文時代で、日本列島には狩猟や採集を生業とする縄文人が暮らしていた。
噴火の規模を0〜8の9段階で表す火山爆発指数(VEI)で「7」を記録したこの大噴火は、強力な地震と巨大な津波を引き起こした。
さらに「鬼界アカホヤ火山灰」と呼ばれる数mの厚さの火山灰が大地を覆い尽くし、九州中南部を中心に広範囲にわたり、当時の生態系と縄文社会に甚大な被害をもたらした。
この画像を大きなサイズで見る九州北部では人口が増え続けていた
この大災害が縄文人にどのような影響を与えたのかについて、学界では長年2つの極端な説が主流だった。
被災した広範な地域で縄文人が全滅して社会が崩壊したという説と、被災した場所でも一部の集団が生き延び、以前と同じ生活を続けたという説である。
そこで、スウェーデンのルンド大学やイギリスのケンブリッジ大学などの国際研究チームは、日本全国の遺跡から得られた540件の放射性炭素年代のデータをもとに、噴火前後の人口の変化を復元した。
その結果、どちらの説も事実と異なることを確認した。
九州南部では確かに激しい人口減少が起きていたが、減少傾向は噴火前から始まっており、災害がその流れを加速させていたことがわかった。
噴火の影響で暮らしが途絶えた場所もある。
九州南部のある遺跡では、噴火前の地層から縄文土器がたくさん見つかる一方、火山灰の層より上からは見つかっておらず、この地では噴火を生き延びた人はいなかったとみられている。
それでも、九州南部には噴火を生き延びた縄文人もいた。
一方、九州北部の沿岸では、噴火の影響は受けたものの、人口は増え続けていた。
この画像を大きなサイズで見る九州南部から北部の沿岸へ移住し適応していた
大災害をなんとか生き延びることができた九州南部の縄文人たちは、九州北部の沿岸へ移住したとみられている。
移住の手がかりとなったのは、縄文人が身に着けていた石の耳飾りだ。
噴火前は九州南部だけで見つかっていた耳飾りが、噴火の直後から九州北部で見つかり始め、数を増やしていった。
研究チームは、特別な意味を持つ耳飾りをやり取りすることが、地域を越えた新しい人間関係づくりを支えた可能性があると考えている。
九州北部の沿岸の人々は、石の銛(もり)で海の哺乳類を狩るなど、海の恵みを利用して暮らしていた。
噴火後、海の生物は比較的早く回復した。
海での狩りはさらに盛んになり、五島列島や沖ノ島といった沖合の島々にまで広がっていった。
南部から逃れてきた人々が受け入れられ、知識が共有されたことで、海の資源を生かす新しい暮らしが、九州北部の人口の増加を後押ししたとみられている。
論文の筆頭著者であるケンブリッジ大学のエンリコ・クレマ教授によると、生存者たちは新しい人間関係を結び、災害後の環境で生き抜いて繁栄する工夫を見つけていたという。
この画像を大きなサイズで見る絶望的な災害を乗り越えて新しい環境に適応した縄文人
一方、九州から離れた四国や、本州の太平洋側にある伊勢湾の周辺などでは、状況が異なっていた。
噴火の火山灰は東や北東の方角へ運ばれ、火山から遠く離れていても、火山灰が多く降り積もった地域があった。
四国や伊勢湾周辺では噴火前は人口が増えていたが、噴火の後は人口が停滞、あるいは減少に転じていた。
遠く離れた地域への影響が見つかったのは、今回が初めてだという。
火山灰がどのように人口を減らしたのかはまだ特定されていないが、研究チームは、噴火による一時的な気候の変化や、縄文人の食料だったシカやイノシシの歯が極端にすり減ったことなどが関係していると考えている。
シカやイノシシは、火山灰に覆われた土地で草を食べていたため、歯がすり減ったとみられる。
地域によって被害の状況に差は生じたものの、生存した縄文人たちは、未曾有の状況から立ち上がり、新しい環境に適応することで生命をつなぐことができたのだ。
生存者は移住先でまずは人間関係を構築し、惜しみない努力をした。そして移住先の地域住民たちも、生存者を仲間として受け入れてくれた。
双方の協力関係があってこそ、九州北部での縄文人の繁栄につながったのだろう。
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九州北部に移住者を受け入れるだけの余裕があったとすると
縄文時代の人口はその土地のキャパを埋めるほどではなかったわけか
海の幸が豊かだったことが大きいのかな
「いや~参ったよ、もうすっかり灰に埋まっちゃってさ・・・」
「それは災難でしたねー」「ところでそれ、素敵な耳飾りですね」
みたいなやり取りを想像するとほっこりする
人類が7300年も繁栄してきた事が不思議。
当時の寿命35歳って聞くし。
縄文人の事をスウェーデンが研究か~と思ったけど 日本も古代エジプトとか普通に研究してたわ と気付けたw
当時は今よりもかなり人口分布がまばらだったろうし人数も少なかっただろうから移住については、その後の時代に比べて障害が少なかったのではなかろうか。
放射年代と人口の多寡はどう結びつくんだろ