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image credit:Pixabay
 戦争は人類の歴史とともにあった。大昔と現代とで戦い方は大きく変化したが、根本的なところは何も変わっていない。戦いの王道は、兵の数と技術的優位性だ。このふたつの点で相手より優位に立てた時点で、戦いの初戦はすでに決していると言えるだろう。

 だが、それらの点で劣勢に立たされながらも優れた戦術をもって見事に不利な戦をくつがえした事例もある。

 それはある意味、知恵の勝利と言えるかもしれない。王道ではない、詭道の類だ。しかし、人はそのような勝利にこそ魅せられるのだ。

 ここでは、傑出した軍人たちが死地の中で自軍を勝利に導いた類まれなる8つの戦術を紹介しよう。
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8. 紙マッチ作戦(イギリス)

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image credit:Pixabay
 第二次世界大戦は独創的な戦術の宝庫である。だからと言って、そのどれもが成功しているわけではない。

 イギリスの紙マッチ作戦は本来の狙い通りには行かなかった点では失敗かもしれないが、それでも大きな戦果を上げることには成功した。

 この作戦で、イギリスは紙マッチを空中からドイツ陣営めがけて投下。その紙マッチの箱には、皮膚の炎症や肺病に見せかける方法が説明されていた。

 これを読んだドイツ兵の中には説明に書かれた方法で仮病を使い、戦場から逃げ出す者も出てくることだろう、とふんだのだ。

 だが、ドイツの指揮官はイギリスの狙いを見抜いた。本当に具合が悪いと思われる兵士以外は病院で治療を受けることを許さなかった。というか、少々具合が悪そうでも兵士たちに戦うことを強いたのだ。

 しかしこれが思わぬ落とし穴であった。本当に病気だったのに病院に行くことを許されなかったドイツ兵士から、陣中に感染が広まってしまった。

 さらに指揮官が治療を認めなかったために、兵士との信頼関係も崩壊してしまった。

7. 死の偽装(ノルウェー)

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ノルウェー王ハーラル3世
image credit:Wikimedia commons
 11世紀のノルウェー王ハーラル3世は、武断派であったことから苛烈王として知られている。東ローマ帝国の傭兵として働きながら、巧みな戦術で自軍を勝利に導いた。

 数々の勝利の中でも特筆に値するのが、頑なに抵抗を止めようとしなかった町の包囲戦だ。町は容易には落ちず、そのために味方は苛立ち、戦場を離脱する者やヤケを起こして突撃する者が続出した。

 そこでハーラル3世は妙案を思いついた。味方に自らの棺桶を作らせ、敵に自分が死んだとデマを流したのだ。

 町の人たちはこれにすっかり騙され、あまつさえ町の中で埋葬させてやろうとすらした。

 数人の仲間とともにまんまと町の中に入り込むことに成功したハーラル3世は、棺から飛び出すと剣を一閃。あっという間に町を制圧した。

6. ウラヌス作戦(ソ連)

Stalingrad 07 - Operation Uranus - The Red Army Is the Strongest

 ナチスドイツによるソ連侵攻は冬将軍によって阻まれたという話は有名だ。だが、見落とされがちなのは、最初ドイツの作戦は順調だったということだ。

 もし戦況がスターリンの思惑通りに進まなければ、歴史はまったく違うものになっていた可能性もあるのだ。

 戦いの分水嶺となったのがスターリングラード攻防戦だ。この戦いは史上稀に見る大兵力が投入された戦いなのだが、戦況はソ連にとって思わしくなかった。

 そこでスターリンが目をつけたのが、ドイツ軍の補給線である。

 ウラヌス作戦として知られるこの作戦では、ソ連軍は自軍の補給物資を町の北と南の2部隊にわけた。

 その狙いはドイツ軍の背後に回り込み補給線を断ち、しかるのちに挟み撃ちにすることだった。失敗するかもしれないリスキーな作戦である。

 愛国心ゆえかスターリンの粛清に対する恐怖ゆえかわからないが、それでもソ連兵は見事この作戦をやり遂げてこれを境に戦況はソ連へと傾き始めるのである。

 もし失敗していたら世界地図は今と違うものになっていたかもしれない。

5. 空城の計(中国)

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諸葛亮孔明
image credit:Wikimedia commons
 もしあなたが暮らす町に15万もの兵士が行進してきたらどうするだろうか? 町の中で戦えそうなのはたったの100人のみだ。

 天才軍師、諸葛亮孔明曰く、答えは城門を開け放ち、門の上で琴を弾きながら敵軍を招き入れることだ。

 三国志演義によれば、司馬懿率いる魏軍に野戦で敗れた諸葛亮は、城に撤退し、兵士を隠した上で前述のようなことをした。普通なら閉ざされているはずの城門がどうぞ中へと言わんばかりに開かれていたのだ。

 何かがおかしいと感じた司馬懿は伏兵を恐れるあまりに、敵は自軍よりも圧倒的に少なかったというのに結局城には突入せず、撤退を命じたという。

 しかし、これは天才軍師と称される諸葛亮の名声があってこそで、並みの指揮官がやって成功するかどうかはわからない。かえって墓穴を掘ってしまう可能性だってある。

 なお史書では、空城の計を最初にやったのは、蜀の将軍・趙雲となっているそうだ。

4. イリッパの会戦(古代ローマ帝国)

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スキピオ・アフリカヌスの銅像
image credit:Wikimedia commons
 古代ローマ帝国の成功は、有能な指揮官によるところが大きい。

 才能ぞろいのローマの将軍の中でも特に有名なのが、ローマを震え上がらせたかのハンニバルの軍勢をイリッパの戦いで破ったスキピオ・アフリカヌスだ。

 紀元前206年、ローマ軍率いるスキピオは、ハンニバルの弟マゴと彼の配下で最も優秀だったジスコーネが率いるカルタゴ軍とイリッパ(現スペイン、セビリア県)で対峙。スキピオは中央に練度の高い主力のローマ兵を、両翼にイベリアの傭兵を配置し、これをずっと変えなかった。

 これを見たマゴらはそれがローマ軍の布陣であると思い込み、カルタゴ軍の主力を中央に、傭兵を両翼にとローマ軍と同じ布陣を敷いて対応。それから数日間、戦いは膠着状態が続いた。

 ところがスキピオは突然布陣を入れ替えて、主力を両翼に、傭兵を中央に配置。夜明けとともにカルタゴ軍を奇襲したのである。

 驚いたカルタゴ軍は応戦するも、自軍の主力は中央に配置されたままで、傭兵部隊のみで手練れぞろいのローマ軍主力と戦わねばならなかった。

 当然、支えきれず瓦解。こうしてスキピオは1万の兵力差をくつがえし、勝利を収めた。この戦いはローマとカルタゴが繰り広げた第二次ポエニ戦争の転換点となった。

3. ヒュダスペス河畔の戦い(マケドニア)

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愛馬に乗るアレクサンドロス大王
image credit:Wikimedia commons
 アレクサンドロス大王は歴史上最高の指揮官の1人だろう。彼は戦場では優れた武勇を発揮し、自軍を上回る敵軍を撃破。

 生涯を通して負けることなく、小さな都市国家に過ぎなかったマケドニアを人類史上最大の帝国に築き上げた。

 しかしインドへの遠征では危うく敗北を喫しそうになったこともある。

 ギリシャ、ペルシアと制圧したマケドニア軍をインドで待ち構えていたのは、西洋人が見たこともない巨大な象にまたがる兵士の姿だったのだ。

 初めてみる動物の姿に怯むことなく進軍を続けたアレクサンドロス大王は、ヒュダスペス川(現ジェルム川)を挟んで古代インドの王ポロスと対峙。対岸に布陣するポロス軍はマケドニア軍を明らかに数で上回っており、正面からぶつかるのは得策ではなかった。

 このときの用兵はアレクサンドロス大王最高のものとして知られている。

 大王はポロス軍と睨み合う本体を部下に任せて、自身は少数の兵を率いて27キロ離れた地点まで移動。雷雨が降りしきる中、敵軍に悟られることなく川を渡ることに成功した。

 これに気づいたポロスが息子に軍を率いさせ対応したが、アレクサンドロス大王はこれを返り討ちにし、最終的に本体と呼応しつつ戦いで勝利を収めている。

 敗れたポロスであったが大王からその勇猛さを認められ、これまで以上の領地を与えられたうえで、大王のインド遠征中はともに戦った。

2. 弱兵という評判を利用(中国)

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孫ピン
image credit:Wikimedia commons
 紀元前403年に晋が韓・魏・趙に分かれたことで始まった中国の戦国時代は、まさに群雄割拠の時代であった。斉もまたそうした国のひとつで、列強の魏と対立していた。

 そんな斉であったが、困ったことに兵は弱く、戦ではすぐに敵前逃亡するともっぱらの評判であった。対するホウ涓に率いられた魏の兵は精鋭ぞろいとの評判である。

 両国間で戦いが始まったととき、ホウ涓はやすやすと勝てると思ったことだろう。

 しかし斉には孫ピンという軍事の天才がいた。かの孫子の子孫とされ、自身も孫子と呼ばれる孫ピンとホウ涓は、共に兵法を学んだ旧知の間柄であった。

 しかし、彼の才能を妬んだホウ涓によって嵌められ、刑罰として両足を切断されたという因縁もあった。

 孫ピンの策はこうだ。行軍中、夜間に陣地のかがり火を減らして、兵が少なく見えるよう偽装したのだ。

 これを知ったホウ涓は、噂されているように斉兵が大勢逃げ出しているのだろうと思い込み、完全に油断していた。

 しかし、いざ対峙してみると斉軍は10万の大軍ではないか。油断し切っていた魏軍は完全に圧倒され、ホウ涓は自らの首を切って自害。斉軍の勝利となった。

1. ピラミッドの戦い(フランス)

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フランスの画家、ジャック=ルイ・ダヴィッドによる作品「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」
image credit:Wikimedia commons
 人類史上最高の軍略家と言うなら、ナポレオンはその最有力候補だ。

 彼が傑出しているのはアレクサンドロスやチンギス・カンとは違い、技術的にも軍の経験の上でもまったく対等な敵と戦い、それでいて勝ち続けた点だ。

 いくつもの華麗な用兵を見せているが、特に紹介したいのは1798年のピラミッドの戦いだ。

 マムルーク(10〜19世紀、イスラム圏にいた奴隷出身の兵士)が誇る恐るべき騎兵は6万。2万のフランス軍を数の上で圧倒的に凌駕していた。

 ナポレオンがこの戦いに勝利できたのは、画期的な密集方陣戦術のおかげだ。彼は5師団に方陣を組むよう命令し、内側に騎兵と物資を、四隅に砲兵を置いた。

 その布陣は幅よりも長さの方向に兵士を多く割り当てており、正方形というよりも長方形の方陣である。第1半旅団と第2半旅団が前後に立ち、第3半旅団が左右の側面を担当する。

 マムルーク騎兵は幾度かフランス軍に襲い掛かったが、その都度フランス軍の砲撃によって撃退された。

 終わってみればマムルーク兵は2万の損害を出した一方、フランス軍はわずか300とナポレオンの完全な勝利だった。

 なお、「4000年の歴史が諸君を見下ろしている」というナポレオンの有名なセリフはこの戦いでのものだ。

追記(2019/11/24)

 これらは海外サイトでまとめられていたものですが、史実的に見解が異なっているという意見をコメント欄でいただいております。そちらも参考にしていただけると幸いです。

References:Toptenzなど / written by hiroching / edited by usagi
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コメント

1

1.

  • 2019年11月23日 20:38
  • ID:XTjgLE2A0 #
2

2. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 20:46
  • ID:fYVHdDqA0 #

為になるけど
正直この手の話は8つではお締まりきらない

それくらい古今東西何千年と人間は戦争をしている

3

3. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 20:51
  • ID:Tmk5Cg630 #

いつの時代も学が勝利

4

4. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 21:23
  • ID:2GLpcbWK0 #

桶狭間がない・・・

5

5. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 21:32
  • ID:8NxrO.nE0 #

吉川元春率いる精兵300 vs 豊臣秀吉率いる正規兵・農兵・浪人の混成軍30000
背水の陣で兵力差100倍にも拘らず吉川元春の勝利となった

っていうのもここに入りそうだよね

6

6. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 21:33
  • ID:S0.TcCtZ0 #

源義経の、「鹿が崖を駆け下りるのを見て、『馬でも行ける』と崖を降りて奇襲した」は(史実はともかく)ここに入っても遜色ないであろう

7

7. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 22:22
  • ID:u3orPr9J0 #

当たり前だけどこの手の大胆な戦術を思いついても、実際に行動に移す勇気と部下の信頼が無いと成功しない。

8

8. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 22:23
  • ID:u3orPr9J0 #

ジオン軍「俺たちのミノフスキー粒子とザクとコロニー落としも評価してくれ!」

9

9. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 22:26
  • ID:MaBTMgBS0 #

戦争自体は悲惨な物のはずだけど戦いの歴史は俯瞰する分にはやたらに魅力的に映るよね

10

10. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 22:38
  • ID:PST3gbhs0 #

ピラミッドの戦いは武器の質と兵の練度に差がありすぎて知恵の勝利に数えていいのか疑問……
ナポレオンのエジプト遠征なら、カイロの反乱軍とベドウィン部族の襲撃で分断されたのを撃破しカイロの混乱を収拾したほうが凄いと思う。なんだかんだで人心掌握に関して天才よ

11

11. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 22:45
  • ID:fYVHdDqA0 #

>>4
信長本人も言ってるけど偶然です
ゲリラ戦やろうとしたら桶狭間 山に
陣取ってた義元と偶然かち合ったの

首とったらすたこらさっさと逃げてるし

12

12. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 22:57
  • ID:YXXi..RZ0 #

戦争の基本は訓練と兵站と物量。
それから戦略の確立と交渉の積み重ねと情報の収集。
つまり事前の準備でほぼほぼ決まる。

時と場合で断行によっては奇策も大事だけど、奇策で一発逆転すれば勝つるの精神は国を滅ぼすもとと心得るべきなのですよ。

というわけで、こういう華やかな戦術だけでなくて、地味で地道な戦略にも面白さを感じる人がもっと増えて欲しいと、戦史界隈に足を突っ込むおっさんは結構真面目に願っているのです。

受験勉強の一夜漬けとか、普通に考えると効果ないでしょ? そういう感じで。

13

13. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 22:58
  • ID:YXXi..RZ0 #

それはそうと、この中で8の毛色だけ違って見えるのワイだけやろか。

……英国面

14

14. 匿名処理班

  • 2019年11月23日 23:01
  • ID:YXXi..RZ0 #

※5
それを出すならまず韓信を出さないと。
元祖背水の陣ですしおすし。

15

15. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 00:34
  • ID:1eLuSJTl0 #

「日本の諸葛孔明」こと、吉備真備の藤原仲麻呂殲滅作戦もなかなか面白い。
圧倒的に優位な藤原仲麻呂が吉備真備の策によって進路を塞がれ、息子の治める越前国に逃れるうちに兵士が逃亡、その頼りの息子も吉備真備が派遣した軍によって殲滅。
最期は仲麻呂一族は船で逃げようとするも逃げられず死す。
結果、圧倒的に不利だったが、吉備真備の指示どおりに動いた朝廷軍の完勝に終わる。

16

16. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 00:35
  • ID:Im3anycH0 #

孫ピン、ぜんっっっぜんっっっっっっ、違う策になってるんだが?

孫ピンがしたのは、
魏に攻め込んで別面作戦をとってたホウ涓の魏軍に背後から追われる形を作ったこと
その後、追い掛けられた初日に炊飯のために土を盛って作る即席の竈の数を半分の五万に減らし(なお、当時竈は一人一つ作ると言うのが本然)、その翌日には三万、さらにその翌日に一万に減らしたこと
これで、ホウ涓にこのままでは斉軍が軍の形を失って、決戦どころか勝敗すら明らかにならない形になると、”油断”ではなく”焦慮”を抱かせたこと
そうやって、ホウ涓が麾下の全軍ではなく一部に過ぎない騎兵だけの部隊を編成し急追させるような形に追い込み圧倒的な数の優位を得たこと
その上、会敵するであろう地域を非常に狭小な道を撰び、その周囲に兵を伏せ隙を突いて急襲したことで、易々と勝利したって話

単なる弱卒の評判だけを頼りに相手の油断を待ったっていうような消極的な作戦とはかけ離れた、様々な仕掛けで相手の思考の方向を誘導し自軍に絶対的優位をもたらした超積極的な作戦であって、記事の内容とは全く逆だわ

17

17. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 01:14
  • ID:etzfRdYD0 #

ハーラル3世強すぎません?

18

18. 安房守

  • 2019年11月24日 01:19
  • ID:r9lQkmMt0 #

ボナパルティスとの私として一言。ピラミッドの戦いと言われている割に、ピラミッドの側で戦っていない。20キロも離れていたが後世を意識したボナパルトが、絵画や本国への報告であたかもピラミッドの側で戦った様に伝えさせた為。

アレッサンドリアからカイロまでのボナパルト軍は、本人と同行した考古学団と一部の者たちを除けば、「文化も宗教も風習も違う未開の地にほっぽり出された」感が付きまとっていた。そして深刻な水不足の為に、軍はカイロ入場を果たすまで反乱寸前だった。畑でスイカやメロンを見つけた時は歓声を上げたと言う。

マムルークとの戦いには、沈んだ士気を増大させる効果があった。それはマムルークは戦いに臨んでは頭から足。そして身に着ける馬具に武具と言ったものに、金銀宝石をあしらったものを持っていた。財宝に目のくらんだ兵士たちはそれらを収奪するため各戦いに勝利したと言っても過言ではない。

後年100日天下で皇帝ナポレオンがワーテルロー会戦で、イギリス連合軍に、騎兵のみの突撃を繰り返し大損害を与えたが、壊滅に至らなかったのは、支援無き騎兵の突撃が無意味と言う事を現していた(ただこの突撃に際しては、ナポレオンは胃痛の為。休息していた)。故にピラミッドの戦いや、その前にあったシェラキイトの戦いで圧倒的大差を持って勝利したのはそのためである。

19

19. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 02:03
  • ID:q.uxD7650 #

三國志演義はこんなのばかりだね、カッコ良いから物語では誇張されやすいのかな?
孫臏のはなんか違うような気がするけど、

20

20. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 02:09
  • ID:UdOThvvW0 #

歴史は残された書物や遺跡を参考にするしかないので、様々な説がでてくるよね。本を書いた著者の思い入れもあったりするから様々な解釈が生まれていそう。日本に伝わっている内容と、海外で伝わっている内容も異なってる気がする。

21

21. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 02:31
  • ID:9QNvrm7y0 #

人類はこれらの成功や失敗を後世に残せるから発展してきたんだよね。これからもあらゆる失敗成功を糧にして繁栄しようじゃないか。

22

22. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 03:29
  • ID:r2CBCGC30 #

※12
最初の3行、孫子の兵法も、冒頭から各章にかけて
徹頭徹尾その考え方を繰り返してるよな。

実戦ドンパチやるのはどうあっても損失が大きくなる悪手で、本来そこまで切羽詰る前に外交や水面下の諜報工作などでどうにか対処つけておくべきもの。それでもどうしても戦争するのなら、「あとは実行すれば勝てる」レベルまで入念に下準備を整えておいた上で、一気にダッとやって短期決戦でサッと決めろ、的な。

23

23. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 03:41
  • ID:oWOyNrtq0 #

※6

義経のその作戦は敵を撃破するという意味では間違いなく優秀な奇策だったんだけど、そんな危険な作戦に同行させられた源氏の武家からは不評を買ったっていう説が今はあるね。

義経が武力を頼みにする政治下手なところも相まって、頼朝と対立した際に多くの武家からの支持を失って、孤立を招いてしまったっていう。

戦争上手でも最終的に兵士にそっぽを向かれれば負けるっていうのが時代の無情さを感じさせてくれるなあ。

24

24. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 06:11
  • ID:NBdfm6iQ0 #

>もし失敗していたら世界地図は今と違うものになっていたかもしれない

いや残念だけど、もしウラヌス作戦が失敗していたとしても、やはりナチスドイツは敗北していたと思う。根拠は…第二次世界大戦全体での戦死者数を比較すると、確かソ連はナチスドイツの倍くらいの犠牲者数を出していたはず。(独ソ戦に限定して比較。特にソ連軍の初期は惨敗に近かった)まあ、普通は自軍の犠牲者の倍も相手の兵士を倒せば、その戦争には勝てるはず…だと思うのだが、ソ連は屈しなかった訳だ(これは第二次大戦全体での比較だから、当然と初期はもっと格差が広がっていたはず)。なので、もし当作戦が失敗していても、それはソ連軍の惨敗期間が多少長くなるだけで、やはり全体の趨勢ではソ連軍の勝利は揺るぎないものだったと思う。やはりソ連軍の底力は怖ロシアなものが有るよ。

25

25. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 07:31
  • ID:GOnQNG3h0 #

す、スリーハンドレッドは……

26

26. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 08:19
  • ID:CmHkThhD0 #

ハーラル3世の話、いくら敵でも善意を踏みにじるようなやり方を知恵の勝利とは言いたくないなあ。

27

27. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 08:38
  • ID:wIpTrkRz0 #

後期だからあまり注目されないけど、三国時代の呉の西陵の戦いもかなり不利な状況を覆した戦いだよね
有能な臣下(陸抗)がいたから勝てただけなのに、時の暴君に「うちの国は強い」と思わせてしまったのは皮肉な話だけど

28

28. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 10:33
  • ID:PbkOtgdC0 #

歴史警察が出張ってきそう、というかすでに来てるw

29

29. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 11:22
  • ID:jvk8RmnM0 #

>>8
ガノタキモすぎでしょ

30

30. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 12:43
  • ID:U5uElhyt0 #

>>23
ていうか義経は戦では強いけど無理な
強行軍多いので兵士から不満はあったよ

31

31. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 13:25
  • ID:Licn290w0 #

戦争は数、とは言うが
只やられる訳にはいかんのよ

32

32. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 13:45
  • ID:NBdfm6iQ0 #

※28
自分の好きな分野の話が取り上げられていたら、多少は意見を言いたくなる時も有るでしょ?それに歴史警察…なんて言われても、世界中の全ての時代や地域(国家)の歴史に詳しい訳でもないし。あくまでも自分の好きな分野限定…という人も多いと思うよ?(私は特にそういう傾向が有るみたいだ)

33

33. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 14:04
  • ID:yoLJZu1z0 #

※24
英国相手にしているだけならまだ勝機あっただろうと思う(米国参戦したらその時点で終わるけど…)。

所詮はifでしかないが、日本が従来通り北進論を採択し、ドイツの求め通りに連合国と開戦することなく対ソ戦に参戦していたら、さすがのソ連といえど挟み撃ちで非常に厳しかったのではと思うが…(アメリカ参戦できなくて一石二鳥)。

34

34. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 14:38
  • ID:c4KXS35E0 #

>>32
落ち着きましょう。歴史警察、というのは別に揶揄する目的で言っているわけではないと思います。

35

35. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 14:48
  • ID:tBJ7QrDD0 #

>>3
でもノルウェー王ハーラル3世のやり方は邪道すぎて…

36

36. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 14:56
  • ID:NBdfm6iQ0 #

※33
そうねぇ、当時のナチスドイツは、ソ連方面、ドーバー海峡方面、イタリアなど地中海方面、と戦力を分散させる必要があったから、とても厳しい状態だったと思う。こういう場合には、攻める連合軍側の方が戦力を集中運用できる良さが出て来るからね。それに確かにドイツは陸軍国だったから陸戦は結構と強かったけれど、海軍は弱小だったから、海を渡ってアメリカに攻め込むなんて無理だったしね(確か本格的な空母も持っていなかったはず。グラーフ・ツェッペリンは進水はしたけど完全完成はしなかったみたいだし)。それにアメリカに直接に爆撃を行える様な爆撃機も持っていなかったから、アメリカを相手にした時点で負け確定…なのは納得できる。(まあアメリカには昔も今も、どこの国も勝てんわな)

37

37. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 15:09
  • ID:XJHCbPNJ0 #

ドイツのロンメルはリビア砂漠戦時に数で圧倒的に勝る敵軍に対して自軍の戦車隊後方に軍用車で鎖を引かせて砂煙を上げさせた

砂煙で敵戦車後方が見えずあのロンメルが戦車大隊を引き連れて来たと誤認しイギリス軍は戦わずに撤退した

イギリス軍が恐れをなしたのは事前にスパイがもたらした「ドイツ軍に戦車大隊あり」の報を信じたからだがこれはロンメルの巧妙な罠だった
ロンメルは事前に軍事パレードで街中の同じルートを周回させて大軍に見せかけていたのをスパイが信じたからである

38

38. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 15:17
  • ID:Im3anycH0 #

※34
どのコメへの返信かも明記せず相手に反論されないように言うところが、揶揄以外の何物でもない

39

39. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 16:06
  • ID:vqjtOdZX0 #

※36
第二次大戦終戦直後のアメリカ本国の軍港に並んだ空母の数を見たら、何をどうやっても無理ってのが判る
その空母に載せられるだけの艦載機もあったし、パイロットも居たし…
稼働状況にあった空母の数が第二次大戦開戦前よりも終戦直後の方が多いってどんだけやねん

40

40. ※32ですが…

  • 2019年11月24日 19:59
  • ID:NBdfm6iQ0 #

※34
大丈夫ですよ?私は全然怒っていません。ただ、書き込みをしている自分の気持ちを説明しただけです。※32では余りキツイ書き方をしたつもりはないのですが、誤解されてしまいましたか?ちなみに※38は私の書き込みではありません(念のため)。まあ、人は色々な考え方が有って当然だと思います。

41

41. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 20:53
  • ID:f..jSvGG0 #

マメだが、孫�巉は両足切断されたんじゃなくて、膝蓋骨の骨を切除されるという刑罰を受けた。歩けなくなるという点では同じだが、膝より下の足が残るため膝の痛みが続き、実生活がより苦痛であるという残酷な刑だ。
孫�巉の「�巉」とはその刑罰の名称で、孫�巉はいわゆるあだ名。実名ではない。

42

42. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 21:04
  • ID:Wcx3RO.k0 #

こういう話にベトナム戦争で活躍したヴォー・グエン・ザップの名前が出てきたことないのが悲しい

43

43. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 21:28
  • ID:f..jSvGG0 #

スターリングラードの攻防はアメリカの支援無くしてありえない。
スターリンはとにかく時間を稼ぎたかった。だから都市を要塞に変えてひたすら人員を投入し続けた。
そして、その間にアメリカの物資で生産能力を増強して最後は圧倒的兵力で包囲殲滅した。
ドイツの補給線分断はその時間稼ぎの一環に過ぎず補助的作戦でしかない。
もし、スターリンを褒めるとすれば、ドイツ軍に戦車を降ろさせ、その最大の武器である機動力を封じ、徒歩での都市ゲリラ攻防戦に引きずりこむように仕向けた戦略だろう。
今となってはなぜドイツ軍が、正確にはなぜヒトラーがスターリングラードにあれほど固執したのかわかっていない。
もともとドイツ軍は南部の油田を目指して進軍しており、その経路からも外れているスターリングラードは放置していてもさほど問題はなかった。抑えの部隊を置いて都市を包囲しておけばそれで済んだのだ。
そもそも、そのためにロンメルは囮となってエジプトで戦ったのだから、ドイツ機動部隊の本隊は石油を抑えるのが最優先事項であって、都市制圧は後続の部隊に任せるのが当然だった。そして、そのまま油田を抑えればそれで戦局は一気にドイツに傾き、イギリスは撤退した可能性が高かった。
もしかすると、歴史に現れていないだけで、ソ連が何らかの作戦でヒトラーに都市攻撃を仕向けるように画策したのかもしれない。
そうだとすると、その作戦は歴史をかえたのは確かだ。

44

44. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 21:55
  • ID:f..jSvGG0 #

※41
ピンて字が化けちゃうのか。

45

45. 匿名処理班

  • 2019年11月24日 23:10
  • ID:fwA9YdPR0 #

※14
そもそもの韓信の背水の陣は城から敵おびき出して足止めするための戦術ですから
足止めしている間に相手の城を別動隊で落とす

46

46. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 00:25
  • ID:wm.87mht0 #

※43
そう言えば、当時はアメリカ側からソ連側に対して相当量の兵器の供与が有ったと、何かで読んだ事が有ります。戦車などの軍用車両も渡っていたはずですし、戦闘機なども実際にソ連の雪原で活躍している写真を見た事が有ります。P-40 などは他地域では旧式化して低評価でしたが、ソ連軍に渡るとドイツ軍に対する地上攻撃用に持ってこいで、故障も少ないので部隊からは高評価だったとか何とか?P-40 は各型を合わせて 2,400 機以上が供与されたらしいので、相当な数ですよね。(ただし、現地で整備の必要が有る機体、機銃などの備品が無い機体も相当数有ったとか?)

47

47. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 00:29
  • ID:dWQRXe8O0 #

>>5
吉川家のその後の不遇を考えると相当な脅威として有力者には認識されたんだと思う

48

48. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 01:50
  • ID:wm.87mht0 #

※43
ドイツ側の意向としては、指導者の名前を冠したこの街を落とせば、流石にソ連人達も諦めてドイツに降伏するだろう…と考えたのではないか?これにはフランス戦の時の成功体験が凄く大きかったと思うよ?ところがどっこい、ソ連人達はウラルの山中に戦車の生産拠点や街機能を疎開させてまで戦争を継続しようとした。独ソ戦開始前はヒトラーは『ソ連など腐った木の扉と同じで、一蹴りすれば直ぐに崩れ落ちる。ソ連など半年も有れば落とす事が出来る!』等と言っていたので、完全に思惑違いと言うか、最初の段階から計算違いを気が付かずにソ連領内に攻め込んで行った事になると思う。だからスターリングラードを取って、サッサと戦争を終結させたかったのだろうね(実はこれが大間違いだった訳だが)

49

49. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 14:57
  • ID:TxcJU7Kk0 #

※6
奇襲の類はね、やっぱり弱いところを突くって感じですよね。
難易度は別として、ナポレオンのアルプス越えも同じ系統かな。

7 とかは、まんまトロイの木馬っぽいな。コレはオデュッセウスの発案かな。

※25
武力が小さいほうは、隘路での戦闘がセオリーですね。
典型的なのは張飛の長坂橋大喝でしょうか。追手がどれだけいたのかわかりませんが、二十騎でしんがりをつとめて、橋の上で「死にたい奴から来い」といって、誰も来なかったわけで、大軍に対してはなるべく狭いところで戦う戦術ですね。
たぶん、他にもいっぱいこういう戦術は使われていると思いますよ。

50

50. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 16:13
  • ID:dWQRXe8O0 #

>>46
ちなみにその時に借りた武器貸与料金は、冷戦後にようやく払い終わったという話です

51

51. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 18:45
  • ID:dWQRXe8O0 #

>>23
義経は、根回しや下準備をせずに、今攻め込めば勝てると思いついたら、来れる奴だけついて来いで突撃するので、それまでいろいろ下準備や諜報活動で作り上げてきた大勢を壊すから嫌がられてたんじゃない
そのうえ、美味しいところは全て持って行くし、源氏の御大将の弟君ということであからさまな批判がしにくいところも恨みを買ってたと思う

52

52. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 18:54
  • ID:dWQRXe8O0 #

>>48
腐った木の扉の話は、ゲッペルスでは

53

53. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 19:26
  • ID:dWQRXe8O0 #

>>42
そうだな、何故出てこないんだろう

54

54. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 19:36
  • ID:dWQRXe8O0 #

>>3
えー、紙マッチの包にサボタージュの方法を書いて敵地にばら撒くって学が必要かなぁ
むしろそういう事を思いつく意地悪さの方が必要なんじゃないかなぁ

55

55. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 19:50
  • ID:dWQRXe8O0 #

スターリングラードについては、ドイツ第6軍が絶対死守(撤退してはいけない)と命令を受けていたので、撤退できなかったんだよな

56

56. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 22:12
  • ID:wm.87mht0 #

※52
そうだったかも?ほとんど資料を読み返さずに記憶で書いているので、細かい相違は有るかも知れない。興味の有る人は調べて欲しい。

57

57. 匿名処理班

  • 2019年11月25日 23:24
  • ID:.4XQPEQ30 #

※33
日本も状況次第でソ連攻めようと国境に軍隊置いて威圧し続けたよ
そしてソ連の恐ろしいところは戦時中を通じて日本の奇襲に備えて数的有利な極東軍を保持し続けた事

北進しても日本が奇跡的な大勝利を遂げなければドイツ敗戦まで片手間で阻止される可能性が高い上に勝ってもゲリラの相手しながらシベリア横断出来るかと言うと……

58

58. 匿名処理班

  • 2019年11月26日 14:57
  • ID:JzHcELsy0 #

※24
ロシアでは大祖国戦争と呼ばれ、未だに夫を失ったおばあさんの嘆きを聞くこともあるし、街中では戦争に行くお父さんの足にすがりついて別れたくないと泣く息子っていう銅像なんかもあり、人々の胸に痛みしか残してない。
誰かを殺したくて戦争するんじゃなく、家族を守る為にやむを得ず行かされた人々・・・。
アメリカには国土内で戦争をされた記憶がないから未だに他国に平気で爆弾を落とす。
先日ローマ法王が長崎でスピーチしたように、不信感の上に土台を築き軍事費を上げていくのではなく、信頼をベースにした社会作りを通し、そのお金が年金や保険に回れば普通にみんなが幸せになる世界になるじゃないか。

って思う。

59

59. 匿名処理班

  • 2019年11月26日 15:38
  • ID:cxO01WZU0 #

※12
あの信長も、一か八かの戦いは桶狭間ぐらいで(しかも最近は偶然主力に遭遇だと言われてる)、あとは圧倒的兵力を揃えることに注力している。
っていうか、信長が天下統一まであと一歩まで行けたのは、大兵力を揃えることができる経済政策と、安心して経済活動ができる領内の治安の良さだったんだよね。

60

60. 匿名処理班

  • 2019年12月11日 21:42
  • ID:cuXvB6.N0 #

「孫子」は書物の名前だよ。人名ではない
『孫子』の著者は不明だけど、孫ピンは著者と考えられている人物の候補の一人
いずれにせよ孫ピンが、彼が生きた時代よりはるか後世に登場した書物の子孫、
という話は支離滅裂すぎる

61

61. 匿名処理班

  • 2020年04月06日 11:56
  • ID:BXjT.yoN0 #

○○子は男子の敬称なので、諱ではないが広義の名前と考えて問題ない。
(諱を知らない一般のひとは、孟子、荀子、荘子等を人名としても口にしているはずです)
後代には孫武を呉孫子、孫ピンを斉孫子とも呼ぶが、孫ピンの時代に先祖は孫子だといえば自然と孫武を指すことになるので、何ら矛盾はない。

孫ピンが加筆した可能性はあるが、元書物としての『孫子』の著者に仮託されているのはやはり孫武の方でしょう。
また1972年には、ほぼ従来の『孫子』とともに『孫ピン兵法』が発見されました。
この発見により、『孫子』=孫武と比定してよいのではないでしょうか。

いずれにしろ、この記事にある孫ピンの兵法は『史記』等に記載されたものとはまったく異なるいうのは先の方が書かれていた通りです。

62

62. 匿名処理班

  • 2022年06月02日 02:17
  • ID:FFdOF7AS0 #

※48 ※58
まさか、ロシアがそっくりそのまま同じような事を攻守変えてやらかして、同じように痛い目を見ることになるとは想像だにしていなかった

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