この画像を大きなサイズで見る1980年にエール大学の歴史学博士であり、自身もゲイであるジョン・ボズウェルが書いた、「かつてカトリック教会は同性愛を容認していた」という歴史的事実を記した著書が、同性愛の人たちとカトリック両方の怒りをかった。
彼の著書にはかつてカトリック教会では、同性愛者のための結婚式の盛大な典礼があり、誓いのキスも行われていたと記されている。この本を引き合いに出した風刺マンガが出たことで、大論争が巻き起こった。
新聞社に掲載を拒否されたキリスト教の同性愛に関するマンガ
アメリカの漫画家、ギャリー・トゥルードーのシニカルな社会・政治風刺の日刊マンガ『ドゥーンズベリー』は、大衆の目に触れた初の学術的教本媒体だったかもしれない。
ドゥーンズベリーは現在、世界中でおよそ1400紙の新聞に配信されており、日本では『ジャパンタイムズ』に連載されている。

ドゥーンズベリーのマンガ
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1994年6月のこのコマ割りマンガの中で、ゲイのキャラクター、マーク・スラックメイヤーがキリスト教原理主義者の既婚男性をナンパしようとして、ミレニアムだから教会が同性愛者の結婚の儀式を行ったという話をする。するとその男性は怒って「どこでそんな戯言を聞いたんだ?」と訊く。
「エール大の教授の新刊本の中に書いてあるよ」とスラックメイヤーは答える。「彼の研究で、聖餐式、神聖な祈り、誓いのキスを盛り込んだ同性愛者のための結婚式の典礼が明らかになったんだ。こうした儀式は異性同士の結婚と変わらないけど、ひとつだけ違うのは、財産をひとつにする異性同士の結婚式はたいてい戸外で大々的に行われるが、愛をひとつにする同性愛者の結婚式は教会の中でひっそりと行われるってことさ」
この週、イリノイ州の少なくとも2紙の新聞社がこのマンガを掲載するのを拒否した。
何人かの読者が新聞社に電話してきて、”ギャリー・トゥルードーはなぜ彼らの人生を不幸にするようなことをするんだ?”と訊いてきた。
マンガのソースとなった歴史家の著書に批判殺到
このマンガで引き合いに出された歴史家であるジョン・ボズウェルの著書『近代以前のヨーロッパにおける同性婚(Same-Sex Unions in Pre-Modern Europe)』も学会の内外で怒りを煽った。
この画像を大きなサイズで見る「近代以前のヨーロッパにおける同性婚」の表紙にもなった、7世紀の聖人セルギウスとバッカスの肖像。歴史家ジョン・ボズウェルは、彼らを初期キリスト教の同性愛者の婚姻例と考えた。
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ジョン・ボズウェルは、ジェブという名でも知られるが、マンガが発表された半年後、エイズ系の合併症によって47歳で亡くなった。
エール大学でのおよそ20年間、歴史家としてのボズウェルの仕事は、現代のゲイ嫌いの頑固な牙城を崩壊させたことだ。
この画像を大きなサイズで見るボズウェルのヴァチカンの図書館カード
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1980年にアメリカン・ブック・アワードを受賞した『キリスト教と社会的寛容、同性愛─1~14世紀西欧のゲイ・ピープル』の前書きで、ボズウェルは
ゲイの人々はいまだに厳しい破門の法律に縛られる対象となっていて、宗教的にうわべだけは正当化されているが、幅広い世間の憎悪を浴び、市民としてさまざまな制約を受けている
と書いている。
彼の本は、この”宗教的正当化”は実はいんちきで、キリスト教が確立されて以来、何百年も後の現代に導入された改訂にすぎないのかもしれないことをほのめかしている。
この画像を大きなサイズで見る友人たちにはジェブとして知られていたジョン・ボズウェルの若かりし頃
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この本は、ローマカトリック教会は必ずしもゲイの人たちに敵意の目を向けていたわけではないことを論じている。
特に12世紀までは、同性愛は偽善行為よりも問題ではないと考えられていて、同性同士の恋愛をむしろ祝福さえするくらいだったという。
キリスト教に関する同性愛本は大反響、賛否両論
この本への反響はたちまち炎上し、賛否は分かれた。「この本を革命と呼ぶことをためらわない」スタンフォード大学の歴史家、ポール・ロビンソンは1981年のニューヨーク・タイムズの書評にこう書いた。
だが、ほかの批評家たちは、細部に注意しているにもかかわらず、キリスト教と同性愛は必ずしもこのような不安定な間柄ではなかったというこの本の中心的論旨は、間違いであるだけでなく、カトリック信者のゲイであるボズウェルの試みは失敗だと感じていた。
ボズウェルは、自分の中で折り合いをつけることができない己のアイデンティティの2面性を、無理やりひとつにまとめようとして失敗したというのだ。
聡明で言語の才能が突出していたボズウェル
ボズウェルは少年のように若く聡明なブロンドのナイスガイで、たぐいまれな語学の才能があった。彼はいつでも、カタルーニャ語、ラテン語、古代アイスランド語、シリア語、ペルシャ語の中から17の故人や存命人物の例を引き合いに出して講義することができただろう。
十代をヴァージニアで過ごし、研究者のブルース・オブライエンに手紙を書いて、監督派教会主義からカトリシズムに改宗し、寛容と力を示すことで、急速にカトリシズムを自分のものにしていった。
ボルチモアの大司教区の大半は、裁判所命令なしで自発的に学校での人種差別を廃止した。それが正しいことをすることになるからという理由だけでだ
ボズウェルはカトリック教会に本来そなわっている本質的なモラルの精神が、不寛容をくじく指標の光となると理解した。その光が、感覚が急速に変わりつつある国の平等に対する葛藤にさらに責任を課すことになるのかもしれない。
ボズウェルが信じた神の愛の力
だから多くの人が、この本は判断するためのチャンスだとみなした。ボズウェルが教会にゲイ社会を歓迎するチャンスを与えたのだと。
ボズウェルの姉パトリシアは彼の葬儀のときにこう語った。
ジェブの神への愛は、彼の生きる原動力であり、自分の仕事の裏に隠された情熱を掻き立てるものでした。
彼はストレートの世の中をかき乱すつもりはなく、むしろゲイの世界をキリストの愛の中に仲間入りさせようとしたのです。
とてつもなく激しい神の愛の力を、決してそれに甘んじるものではないということを、すべての人に知らせようとしたのです
この画像を大きなサイズで見る1300年頃の中世の写本(部分)La Somme le royには、ダビデとヨナタンが抱き合う姿が描かれている。
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1000年にわたるゲイの歴史を記した本
『キリスト教と社会的寛容、同性愛』は、1000年にわたるゲイの歴史を旅する442ページの本だ。
国から国へと飛び歩いて根気強く調査し、特定の男性同士のさまざまな愛のケースを集めて、同性同士愛し合うことが、ごく普通である社会を一般的なものとしてとりあげた。
ボズウェルは、4世紀のフランス、ボルドーに住んでいた詩人アウソニウスと彼の弟子だった聖パウリヌス、のちのノーラ司教の関係を調べている。
ふたりに肉体的な関係があったかどうかははっきり断言できないが、ふたりが互いに抱いていた情熱的な愛情は、普通のプラトニックな友情の枠を超えていたようだ。
わたした見つけたどんな世界においても、なによりもまず最初にあなたを抱きしめる
自らの存在をあなたと結びつけ、遠方の浜辺や太陽にも隔てられることなく、どこにいてもあなたとわたしは一緒だ
わたしは心の目であなたを見て、全身全霊の愛をこめてあなたを抱きしめるだろう
「このような関係と現代の現象の間にはっきりした類似点をほのめかすのは間違っている。それは中世の結婚と現代の結婚を比べるようなものだ」とボズウェルは書いている。だが、友情の概念が変わったという考えは彼にとって虚しく響いた。
特に多くの古代社会において同性愛は習慣的に存在し、普通の友情の一部だったと思われるからだ。「同性の友人という言葉は、同性愛という標準的な語彙から借りてきて、エロチックな単語で彼らの感情を表現したもの」と彼は言っている。
聖アウグスティヌスは、同時期に友情について書いている。「自分の魂と彼の魂がふたつの体の中でひとつになるのを感じた。だからわたしには命が恐ろしい。半身で生きたいとは思わないからだ。これほどまでに愛した彼が完全に死んでしまわないよう、自分が死ぬことを怖れたのだ」
しかしべつのところで彼はこう言っている。「友情の泉が肉欲の汚泥で汚され、欲望の暗黒でその輝きが陰った」だが、これは、同性愛特有の肉欲ではなく、より一般的な性欲に対する中傷のことだ。
この画像を大きなサイズで見るアントニオ・ロドリゲスによるの聖アウグスティヌスの肖像(17世紀)
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やはり同じ頃、キリスト教のゆりかごと呼ばれることもあったギリシア・ローマの町、アンティオキア、ボズウェルは聖ヨハネ・クリュソストムが現在はトルコにあるこの町を訪れたときの様子を書いている。
クリュソストムは、町の男たちが娼婦とではなく、同性同士で互いに大っぴらにつきあっているのを見て驚いた。
ボズウェルは彼の驚きの言葉を引用している。
若者たちの父親は、これを黙認している。息子を引き離そうともしないし、この悪癖の治療法を探すでもない。
恥じる者、顔を赤らめる者など誰もなく、むしろ彼らのささやかな楽しみに誇りをもっているかのようだ。純潔を保っている者のほうが却って奇妙だと思われ、同性愛を非難するなど間違ったことのようだった。
この初期のキリスト教の町で、クリュソストムは同性愛はごく普通のことであることを知り、女性にとってのニーズが満たされることなく、若い男性との未来が必要なくなる危険性があることを危惧した。
同性愛者を禁じる法律も存在したが税金目的だった
ボズウェルは、ほぼ1000年に渡るキリスト教世界の初期にはあった、同性愛や性交の例を次々とあげながら、ときには同性愛者を禁じる法律も存在したと指摘する。
でも、それはたいてい宗教がらみの精神的なものではなく、同性愛行為に罰金を課して税の財源を増やすひとつの方法としての俗事的な理由だった。
司祭や聖職者以外の普通と違う人たちから税金をとるこうしたやり方はよく行われていた。「純粋に教会の記録には、まったく罰金なしか、とても軽いものとたいてい明記されている」という。
例えば、ローマ法王グレゴリウス二世のもとでは、レズビアン行為はレント(受難節)と同じような160日間断食の罰則があった。一方で、狩りを行って咎められた聖職者は3年間のそれに匹敵する罰則が与えられた。
1980年代、アメリカで物議をかもすボズウェルの本
1980年代、アメリカの多くの州でまだ同性愛を禁じる法が残っていた時代、ボズウェルのこの本はカトリックにとって爆弾そのものだった。
当時のアメリカはまだ極端な同性愛嫌いで、偏見が根強く残っていた。
1978年、ゲイであることを公言していた政治家のハーヴェイ・ミルクがサンフランシスコで暗殺された。その一年前には、アニタ・ブライアントが、ゲイの増加から子供たちを守るというふれこみで、同性愛者の権利に反対する組織をつくった。
学術的な研究のわずかな隙間に風変わりなゲイ研究が残り、ボズウェルが創設を手助けしたエール大学のレズビアンとゲイの研究は、1980年代後半になってやっと登場した。
『キリスト教と社会的寛容、同性愛』への批判は、さまざまな方面から出てきた。学界の一部では、ゲイの歴史は歴史研究において興味深くも重要でもないと信じる、オックスフォード大のR・W・サザンのような歴史家から批判があがった(サザンやオブライエンメモは、同性愛は犯罪だとする抑圧された時代に育ったために大きな影響を受けている)。
そのほかにはボズウェルの論旨をこきおろし、ボズウェルの正しくありたいという根深い欲望のせいで仮説が損なわれているとする神学者たち。本が出版された後、カトリックの雑誌『Commonweal』(公共の福祉)にルイス・クロンプトンは書いている。
「容認できない煽情的な考え方に照らして、その膨大な証拠を解釈するという思い込みによって、この本が損なわれているのが残念だ」
ゲイ側からも批判が
もっとも厳しい批判は、ゲイ社会そのものからあがり、ゲイを排斥する教会の暴挙を擁護しているとボズウェルを責めた。
Gay Books Bulletinの中で、ウェイン・ダインは断定している。
キリスト教はわたしたちの文明の中で、同性の関係に迫害と汚名をきせた罪で間違いなく有罪だ。彼らは偏狭な考えに凝り固まったあらゆる者に隠れ家を提供している。
自称キリスト教徒だという人たちが、このことを認めるほど謙虚になるまで、彼らは汚い手をしたままわたしたちのところへ来続けるだろう
ボズウェルとしては、こうした反応を受け流していたようだ。ゲイやストレートというようなカテゴリーは現在の概念だと主張する多くの批評家に対して、ボウウェルはこう答える。
同性愛や異性愛、ゲイやストレートというカテゴリー分けが、人間の精神の本当の姿ではなくて特殊な社会の産物なら、ゲイの歴史というものはない
この本は議論を引き起こしたが、たくさんの賞も受賞し、ほとんど未知であるゲイ研究を掘り下げる上で重要な分野であることをはっきりさせた。
ボズウェルの残した2つの功績
今日、ボズウェルはふたつの功績で記憶されている。本人を知らない人にとってはその分野への貢献で、知っている人にとっては、彼のぶれることのない優しさと寛容さでだ。
1986年の動画で、講演をしている彼は眩いほど輝いていて、聡明で、カリスマ性がある。
実際、ボズウェルは人好きがして、洗練されていて、とてもおもしろい人物。キャンパスの内でも外でも、彼は学生や大学院生たち、ゲイやストレートの人、多くのカトリックからも愛された。
ボズウェルが博士号を修了したハーバードでは、友人でボストン・イエズス会主任司祭のジョン・スペンサーや、キリスト教倫理の教授、ピーター・J・ゴメスと共に名前をあげられる。
大きなトラウマに陥っていたわたしに、彼は突然すばらしい手紙をくれて、支えてくれた。わたしに勇気を与えてくれたんだ
ボズウェルの死後すぐにゴメスは語った。
この画像を大きなサイズで見るボズウェルと長年のパートナー、ジェリー・ハート
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死期が迫っていたボーズウェルのエピソード
ボーズウェルは、1994年12月に亡くなったが、最後の数ヶ月はエール大学の診療所に入院していた。
音楽史家のジェフリー・ブロックは病室に見舞いに行ったときのことを思い出す。昏睡から覚めたばかりだというのに、ボズウェルは”奇跡的なほど鮮やかに”ミュージカル『Earth Girls Are Easy』の『Cause I’m a Blonde』の歌詞を引用した。
友人や崇拝者たちが入れ代わり立ち代わり病室を出入りした。彼が危機を救った友人たち、熱心な大学院生、実父、新任のエール大学長リチャード・レヴィンなどだ。
若い理髪師が病室で、最後にジェブの髪をカットしたが、その代金を受け取らなかったとき、まわりの者の涙を誘ったという。
ボズウェルは、家族、友人、長年のパートナーのジェリー・ハートに囲まれて、クリスマスイブに亡くなった。
死の前の数ヶ月、『近代以前のヨーロッパにおける同性婚』が『ドゥーンズベリー』で先に紹介され、『キリスト教と社会的寛容、同性愛』と同じくらいの議論を呼んだ。
8世紀から16世紀までの60以上の写本の研究を含め、同性婚の歴史を徹底的に研究している。ボズウェルは同性同士の関係を、”ふたりの人間の紛れもなく自発的で感情のこもった結びつき”とか、”異性愛の結婚となんら変わりがない”とか、”読者の一部は不快感をおぼえるかもしれないもの”と表現した。
また、評論家はボズウェルが心から望んだ居場所のようなものを探していたと主張する。2013年の記念式典で、ブロックは、法的にハートと正式に結婚することができたなら、ボズウェルはどんなに喜び、胸躍らせたことだろうと書いている。
わたしは敬虔なカトリック、ジェブを育んだ芝生にひとつのサインを見つけた。逆説的に考えれば、このエール大がボズウェルの性的アイデンティティを引き受けてくれたのだろう。極めて幸せなことだ
サインにはひと言こうある。
R-74(同性愛法)を認めよ。わたしの教会は結婚の平等性を支持する
References:bl / journaltimes / atlasobscura/ written by konohazuku / edited by parumo













なるほど、かつてローマではチョコバットを持った聖職者が突然現れ兵士を捕まえては男同士の結婚を執り行なっていたという話は真実だった訳か。
キリスト教って本当に不自由な宗教だね。
イエス自身は
こんな戒律で自由を糾弾するような宗教望んでなかったと思うけど。
日本もうっほ多かったけど同性愛ゆえ、戦場では互いの
命を守りあったり上になるには必須な感情だった
多分あちらさんも戦場や上になるには必要なことだった
じゃないのかな
生き方は人それぞれ
価値観とは
誰かを傷つける基準であってはならない
皆が幸せになれる世界である事を願う
今でさえバカみたいに騒いでいるけども、日本は幕末くらいまでわりと柔軟だったと聞いたことがある
※8
何故「幕末まで」だったか もう一歩踏みこんだらいいじゃないー
開国後にキリスト教徒様が来たからやでーーー
欧米人が日本の男色文化を非難→鶏姦律条例で犯罪化の流れやでー
そして今また 欧米様のいいなりで
「LGBTの待遇遅れてる日本って」って流れやでーーーーーーー!!
※33
昔も今も外圧に弱いんですかね
人の目を気にする恥の文化ってやつでしょうか
>「かつてカトリック教会は同性愛を容認していた」という歴史的事実を記した著書が、同性愛の人たちとカトリック両方の怒りをかった。
あの人らすぐ怒り出すからなぁ
事実なら怒ったってしょうがないし そもそも後ろめたくないなら怒る必要もないじゃんか
どうにも原理主義的な物の考えは不寛容で息苦しく対立しか生まんように思うわ
どうでもいいけど差別だって騒ぐのだけはよしてよね
長いわ~。
時代によって善も悪も移り変わるもの
現代では関係ないのに無駄に熱くなりすぎ
>同性愛者を禁じる法律も存在したが税金目的だった
これって、いわゆる「初夜権」なんかも
そんな感じだったらしいね。
本当に花嫁を領主に差し出すというより、金銭で回避し
実態は「結婚税」という感じだったとか何とか。
あと、もう廃止されたけど、中国の一人っ子政策も
2人目以降は罰金が課せられる=富裕層には痛手がない
って感じで、「出産税」のような様相を呈していたり。
最後のR74という言葉がわからず検索してもミサイルとかが出てきます
パルモさん意味の補足いただけないでしょうか
誰得
リベラル派は、不寛容だなぁ
※17
>自分が相手の対象のソレと見られた時は恐怖と嫌悪を示すだろう
それは特別な事じゃない、女性も性的対象外の相手に迫られたら正直この感情しかないもの
通常へテロ男性はヘテロ女性に比べ守備範囲が広いから、
よっぽど性的魅力を感じない女性やゲイ男性でしかその感情を経験しづらいだけで、
それ自体は比較的誰でも抱きがちな感情だと思う
男女問わず対象外の相手に好かれるのは身に危険を及ぼすリスクがあるからね
くれぐれも男から女に対する好意だけは純粋で相手にとって快いものだと勘違いしなければ、別にいいんじゃない?
他人のゲイカップルに眉しかめるのは余計なお世話だけどな
見て見ぬふりをされていた、
もしくは友愛かプラトニックな愛情と
されて黙認していた、ってのは確からしいが
そもそも同性愛なんて大昔からどこにでもあるたいして珍しくもない、恋愛のバリエーションの一つにすぎないのに、なんでわざわざ正しいだの正しくないだのの基準で議論することになったんだろ。不思議。
キリスト教世界で同性愛について研究するのは
随分ご苦労されたのではないだろうか。
著作がすごい気になるけど、英語読めんのよねー
ジョン・ボズウェル氏の著書が翻訳されてないかなぁ
※22「キリスト教と同性愛ー1~14世紀西欧のゲイピープル」大塚愛子・下田立行訳 国文社 1990年出版
「ホモセクシャルの世界史」海野弘著 文芸春秋刊 2005年出版に多く引用されてる こちらのほうが読みやすいかも
※52 女性は同性に言い寄られてもけっこう断れるが 男性はそういうわけにはいかない。いつも女性に向けてる欲望が視線だけでも自分に向けられるのが耐えられない男性が多い。なぜなら自分が女性と同じ立場になるということは一段低い位置になるということになると感じるから。つまり男尊女卑な男性ほど同性から性的対象になることを嫌う。
もしくは密かに同性に欲望があると自分の気持ちをかき乱す同性愛者を近づけまいとする。ゲイと会話しようが一緒に仕事しようが 情緒の安定してる男性ほど自分のセクシャリティが確立してる。遭遇したことがなくて慣れてないだけの人もいるけど そのうち慣れるよ。
恋愛は自由だ、と思う半面
眼前で男同士が抱き合いだしたら眉を潜めてしまうだろう
自分が相手の対象のソレと見られた時は恐怖と嫌悪を示すだろう
詰まる所、上っ面以上の許容は出来そうにない、申し訳ないが
※23
抱き合う というのが夜に二人っきりですることなら 想像してやるなよorあんたどこにいるんだ? って話だが もしかして 抱き合うってのはハグのことかな? だったら日常生活に支障がでるなぁ
どんなスポーツでも男同士抱き合うシーンはありふれてるし 洋画も性別関わらずハグシーンが多いし
※23
上っ面の許容以上はしなくていいし求めないから無関心でいてくれ。関わらないでくれ。
人を傷つけかねない思いは胸の内に秘めておいて絶対に公の場で出さないでくれ。
嫌悪感があるのは個人の自由だし別に否定もしないけど、わざわざこういった記事にまで来て書き込まなくてもいいだろ。
てか男女関係なく公の場でいやらしい感じのハグしてたらちょっとビビるわ。少なくとも今の日本でならそれは同性愛どうこうじゃなくモラルの問題。大多数の人間が男女でも眉を顰めるだろ。
※30
>嫌悪感があるのは個人の自由だし別に否定もしないけど、わざわざこういった記事にまで来て書き込まなくてもいいだろ。
そうかなあ。
ヴォルテールって哲学者の言葉とされる(実際は言っていないそうだが)「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」の考え方で、※23のような「自分がどう感じてしまうか」という書き込みも自由であるべきじゃないだろうか。
そして他の人は他の人でそれに対して自由に意見してみたり、罵ったり、-を押したりをすればいい。いや罵ったりは良くないかな。
ともかく「黙ってろ」こそ言うべきことではないんじゃないかな。
※23
他の人も言ってるけど相手が同性だろうと異性だろうとその気がない相手に言い寄られたら断ればいいだけの話だと思うんだよね~
あと同性愛の人も異性愛の人と同じでしょ だれかれ構わず言い寄るとか偏見じゃね?
向こうも人選ぶわけでw
人間的に魅力ない人には同性も異性も寄ってこないしな
もし~とか設定わざわざ作って生理的に嫌だって言いたいだけだよね
結局ヘイトと同じ
てかこの記事、そもそもそういう歴史があったことを晒したら物議が起こったって話で、個人的に同性愛をどう思う?ってみんなに意見聞いてるわけじゃないと思う
そもそも歴史の研究に現代の宗教的価値観を当てはめることが間違っていると思うんだけど、そのほかの理由として現代の宗教家が同性愛者という仮想敵を作ることで結束しようとしているのかなと思ったりもする。戦争や内乱の多い時代はどうしても多くなるよ。
初期のキリスト教では別に同性愛を禁じている記実もなく、随分後の権力者が禁止したのが始まりと私はなにかで読んだ。私の感想もへー、そうかくらいだったし、キリスト文化圏ではない日本ならではなのかもしれないけど、その本は別にバッシングもされず大騒ぎにもならず、勿論そんな話し知らない人が大多数でしょうね。もし同じ様に日本がキリスト文化圏だったらその本もバッシングされてたかもなー。と思った。
世界中の歴史では普通に存在していた様だし、賞賛されていた時代も、迫害されていた時代もあるので、いまは迫害から受け入れる時代になりつつあるのかも、と思ってる。
まあ何だかんだ理由付けて女性軽視も横行してたわけだから、じゃあ高尚な男同士で!みたいな奴がいたって不思議ではなさそうなもんだけどね
※29
キリスト教で女性軽視も謎だわな
イエスが処刑される時、男の弟子連中は逃げ出して
イエスの遺体?の世話してたの女衆なのに
カトリックとゲイみたいな、こういう絶対分かり合えなさそうだとだと世間的に思われてるものの融和を求めようとする姿勢を評価する
キリストは寛容の精神を説いたはずだし、ゲイは疎外の歴史の中で寛容さの重要性をよく知ってるはずなのに、お互いに「相手のことは絶対に認められない」と言い合ってるのは皮肉だねぇ
とはいえ1994年ってもう20年も前の話みたいだし、現代とはまた状況は異なっているようにも思える
同性愛が禁忌とされがちなのは子供ができないからという理由が大きいのだろうけど
結局のところ、この問題は全体を優先するか個人個人の幸福を優先するかという近代化後の社会につきもののジレンマが関わっている気がする
同性愛を禁じたところで同性愛者が異性愛者になるとかそんなことはないのだろうけど全体主義者にそういう理屈を言っても通じないからね
彼らの頭の中では人間個人が自分の幸福よりも全体の利益を優先するのは当たり前のことでつまりは全体の利益のために同性愛者が異性愛者になるのは当たり前のことだからね
まぁとはいってもこれから先はロボットが普及して生身の人間の労働力なんか必要なくなる時代がくるのだろうしそうなったら自然に同性愛も普通のことになるんじゃないかな
同性愛関係は容認されてたとしても結婚が認められてたは流石に無理があるのでは
原始キリスト教がおおっぴらに同性婚の儀式とかやってたらどこかに記録が残りそうだし同性愛を禁止している旧約聖書は古代から内容の変化はほぼ無いという研究結果が出てるし旧来ユダヤ教徒にとっては格好のバッシング材料じゃないの
※38
宗教的束縛が弱く、何でもネタに変える類の人がいるからこそ、日本は他国に比べると寛容なのかもしれない。
ただし淫夢てめーはダメだ
無理やりとか力づくとかじゃない限り好きに愛せよ理解できん
※39
あと性別関係なく不特定多数の人との乱交で性病が蔓延するきっかけにならなければ、愛することは自由であるべきだと思う。
長い
翻訳機っぽくてわかりにくい
元の文に慣用句が多いせいなんだろうけど日本語らしく簡潔にかみ砕いてほしい
「同性愛の人たちとカトリック両方の怒りをかった」という文章を受けて
「ゲイ側からも批判が」の項を冒頭に入れてくれた方がいい
汝、隣人を愛せよ、なんてよく言うよねー、と思う。といってもダ・ヴィンチ・コードではイエス・キリストは教会をもつことすらしない教義であり、多数の思惑によって歪められてることは明らかにされてるよね。
一部の人の思想を偉い人の言葉とした結果、いまの世界的な差別に発展してるんだからすごいものだよね。
ありのままの感情を書き込んでくれたほうが参考になります
まだ同性愛に対して嫌悪感を抱いたり拒絶したりする人がいるならそれを事実として受け止めなければならないし
それがどの程度のものなのか、というのも気になります
※43
同性愛者が異性愛者の男性に迫って拒絶された時に、その態度がひどかったからってそれを差別だ!!と相手を責めないのであれば受け入れられると思う
友情との境い目はどこらへんなのかね?
アニメの登場人物をくっつけて妄想してるジャンルと同じニオイがするんだが、
社会活動に影響しないなら個人同士で好きにさせとけ。
太鼓叩いてデモやり始めたら始末しとけ。
宗教も政治だからね
特にキリスト教なんて教義がメチャクチャになって収拾がつかないから、1回リセットして正統と異端を決めたという経緯がある
つまり神じゃなく人が決めてるんだよね
それでも信じられるというのは人の心の不思議だよ
ただ純粋に人を愛しいと思うことを禁止するのが神様なのかね。
禁止すべきはそれを蔑み差別する心だろ。
LGBT云々の前に、BLだの百合だのすぐ下ネタに直結させる人が多い。
同性カップルが当時教会の庇護下に存在して認められてても、特に不思議はないかも。
だって、11世紀に教皇レオ9世がカトリック聖職者へあまねく独身制を敷く取り組みを始める前には、
男女共住修道院で結婚して子を産んで共に子育てする聖職者夫婦がいたんだぜ?
(高僧の妻帯が批判禁止されたのが5世紀以降、一般聖職者の結婚禁止が11世紀なんだ)
その上キリスト教にはあのギリシャローマの影響が大きかったんだから、そりゃその夫婦の中には同性カップルもいただろうと思えるよ。
元々中世暗黒時代のキリスト教関連は弾圧が仕事みたいなもんだから仕方ない
古代の医療→魔術扱い→衰退
古代の天文学→天動説→衰退
言い出したらキリがない
所詮は当時の権力者の道具だよ
このエジプトの壁画は初めて見た。
なんか見てないものまだまだたくさんあるな~
昔の結婚は家財の保護のために行われたものだから、家財と家系が守られるなら同性婚が認められていた可能性はあるね。
昔の女性なんて跡継ぎを生む機械枠だし。もちろん才覚のある女性が家の頂点に立ち取り仕切るバターンもあったがあくまで少数派だ。
科学が進んだ未来で、同性でも科学的に子孫が作れるなら良いが
そうでないなら、倫理やら思想やらお題目を並べても
種として逸脱してる事実は変わらなんだろうに
なんでもっとシンプルに考えんかなー
動物にだって同性カップルがいるのだから
人間にだっていて当然だと思うのだけれど
お互い同意があるならいいじゃない
ノンケに無理やり迫ったりするんでも無ければ好きにしろよと思う
わたしは「レズビアンの歴史」って言うハードカバーの翻訳本持ってる。
ただこれも二十数年前の知識だから、今は結構変わってるんだろうなぁ。
容認できないのもその人の自由、ただそれを攻撃に変えちゃダメだと思うけど、別に恋愛感情を持った男同士・女同士で抱き合ったところで地面が爆発するわけでもなし、個人の自由でいいじゃない
異性でも同性でも強要やレイ/プはいけないけどさ、そうじゃないんだったらさ
容認できないなら黙って遠ざかればいいだけだし、容認してることをことさらアピールする必要もないし、別に普通にしてればいいんじゃないと思うけど
といってもまた、宗教の教義をどのように解釈するのかもそれも自由なわけだけどさ
だからって宗教ありき→人間は二の次っていうのも本末転倒感あるし、そんな攻撃しなくてもいいんじゃないのって気はするわ
近代が合理化の名の元に都合の悪い真実を切り捨ててきた事を思えばありそうな話だけど、じゃあ現代カトリックが同性愛を嫌悪するようになった契機は何だったんだろう?
同性愛を認めると雌雄で生殖して数が増えなくなるのが嫌悪の根本的理由
※68嫌悪してしまうのが本能的なものなら
愛してしまうのもまた本能なんだよね
※68
同性愛が認められたら、とたんに全員が同性を愛するようになると思っているんだね。
もちろんあなた自身も、認められるなら同性の人と愛し合いたいのか。
別に今だって、もっと自由になっていいのよ。
たった二千年ほどの歴史しか持たない宗教に人の愛を縛る権利などない
そう言えば同性同士のキスを見た時の嫌悪感のレベルの話を見たけどあれはカトリック教会調べだったんだっけな
本当に恣意的なものを感じるなあ宗教ってやつは
ボズウェルって
天才だったって印象
同性婚を推奨すると、子供が生まれず国の税収が減るからな
何としても認めたくないんだろう
まぁ昔は普通だったから別に良いんじゃないか?とおもうよ?人に迷惑かけなければ
同性愛を嫌悪するのが本能なら、世界の各地に男色の文化が存在し、おかしなものではなかったのがありえないんだよなぁ。つまりは誰かが作り出した価値観をあたかも「本能的嫌悪」と勘違いしてるってこと。
こういうのは概ね政治的利権のために法制定して、年月経つと、その前の状態が忘れ去られて弾圧が始まる。
魔女狩りと同じですね。
色欲に溺れて、あちこち性別構わず手を出して自堕落な行いをするのはダメだが、誠実にひとりの相手を大切に、真面目な夫婦生活を送るなら性別が同じだろうが良いと言いそうな物だけど。
キリスト教では愛を説くくせに、子供を作るため以外の性愛を認めてないから
子供の出来ない同性愛を認めないんだと思うよ
クリスチャン(カトリック)であり、
パンセクシャルだよ。
自分は「愛」という概念は、恋愛感情に限定しない。
その定義や概念はもっと広いと思っている。
日本でもLGBT支援の精神でミサをやっているカトリックの神父さん達の団体もある。
気になる人は調べてみてくれ。
この先生の本は僕も是非読んでみたいです。
是非、翻訳されてほしい。
因みにカラパイアーの人々は、肯定的意見も批判意見も、きちんと筋が通った事を書く人が多いから、
読みやすいし双方の気持ちも分かる。
ユーモアもあるし。
久しぶりに見にきたが、良いコメント欄だね。
ありがとう。
まぁ、ゲイの寛容・不寛容の問題はさておき、ちょっと無理筋な解釈が多いよね。
男同士が単に抱き合っているだけの画像でホモォを創造できるとか、
ただの腐女子脳じゃないですか。
男色と同性愛って違うものだと思うけどなぁ
昔の男色はバイセクシャルに近いものではなかったのだろうか?
女性とは子を成し、男性とは契る
両方が成り立つ時代だから許された
これを今の世に持ち込んでどうこう言うのはちょっと違うと思うんだけどね