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ドイツ騎士団の城で見つかった中世の碑文(ラトビア ツェーシス城)

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(著)

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ドイツ騎士団の城で発見された中世の碑文 image by:Yakikaki / wikimedia commons
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 氣志團ではなく騎士団である。

 ラトビアの中心部にある有名なツェーシス城はドイツ騎士団の最大にして最強の城のひとつと言われているが、その城の血のしみのついた石壁に16世紀後半のものらしい碑文が刻まれたことが発見されたという。

ドイツ騎士団の最大にして最強の城

 ツェーシス城は、ラトビアの代表的な中世の城のひとつ。1213年および1214年に、のちのドイツ騎士団の前身、リヴォニア帯剣騎士団によって建設された。

 1237年からのドイツ(チュートン)騎士団時代に、重要な行政や経済の中心となり、もとの城は、さまざまな機能をもつ建物や外壁を備えた巨大な要塞になった。

 スティーヴン・タンブルは、2011年の著作『Crusader Castles of the Teutonic Knights』の中で、ドイツ騎士団の最大、最強の城のひとつと言っている。

 ドイツ騎士団は、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つで、プロイセンなどを統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられている。日本ではチュートン騎士団として知られている。

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image by:public domain/wikimedia

 1577年、リヴォニア戦争のときに、ロシアのイヴァン雷帝がツェーシス城を包囲、破壊した。さらに1700~1721年の大北方戦争では、ロシア皇帝がスウェーデン帝国と北・中央・東ヨーロッパで覇権を争った結果、城は廃城となった。

 今日、この壮大な城はツェーシスの有名な遺産となり、訪れる人も多く、バルト諸国の考古学遺跡として大切に保存されている。

現在のツェーシス城

Cēsis Castle, Cēsis, Latvia

16世紀後半の碑文を刻まれた石壁を発見

 ツェーシス城の南塔から、何世紀もその存在がはっきりしなかった隠された螺旋階段が見つかっている。最近、ここを調査中に、16世紀後半のものらしい碑文が刻まれた石壁が発見された。

 ラテン語とドイツ語で書かれていて、”ツェーシス城に残っていた、文化的、歴史的にもっとも重要な最古の石碑”と言われる。その一部はすでに解読されている。

 ツェーシス歴史博物館のグンダース・カルニンスが、ライトの角度のせいか、石になにか刻まれているのに気づいた。

 これまでは見えなかったが、紋章のような刻印の周囲に”WKVA”というアルファベットが刻まれていて、真ん中に家紋のようなものが入っている。

 それは装飾が施された盾のような形で、そばにあるドイツ語の文章の一部は今は消えかかっているが、石の右側の斜めになったラテン語は、”Si Deus pro nobis quis contranos”と書かれているのがわかる。これは、”もし神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できようか”という意味で、使徒パウロがローマ人に宛てた手紙の中で問いかけた言葉だ。

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ツェーシス城で見つかった碑文

血塗られた過去からのささやき

 カルニンスによると、石壁刻まれた碑文は、特定の光の条件のもとでしか見ることができないという。

 塔のほかの内壁と同様、碑文が施された石はかつて石灰塗料が塗ってあったが、幸いなことに白いコーティングと碑文が刻まれた部分との差を見分けることができ、文章を読み取ることが可能になったという。綿密な調査によって、この碑文は先の尖った鉄製の道具で描かれたと断定された。

 さらに、文章の内容は、これが1577年にツェーシス城が包囲されたさなかに書かれたらしいことを示していて、リヴォニア戦争のこのエピソードは、16世紀のヨーロッパの悲劇的な出来事のひとつとして歴史に刻まれているという。

 5日間に渡るロシア軍の猛攻で城壁は破られ、多くの市民はイヴァン雷帝に屈服するのを拒んで自決、騎士団の多くも死んだという。

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image by:Yakikaki / wikimedia commons

500年間の影に埋もれて

 このシンボリックな碑文が作成者自身を示しているなら、中世のラトビア市民は、財産の所有者がもっとも価値ある所有物を明らかにするために使う”紋章のようなものとしてルーン文字に似たシンボル”を採用していたことになる。

 個人の家系の印として刻まれたシンボルは、署名、印章、封印の形で表わされるが、これを彫った彫刻家はわからないだろう。彫刻を施したこのような特殊な盾のマークは、16世紀後半の特徴をもつ。

 大昔に刻まれた図案が500年もの間気づかれずに埋もれていた理由は、去年初めて、ツェーシス城の南塔に考古学者たちが足を踏み入れることができたからだ。

 当初の目的は、塔の天井やらせん階段を復元するためだった。この塔は”のっぽのヘルマン”と呼ばれていて、エストニアの首都タリンにあるトームペア城の有名な中世の塔と同じ名前だ。

 両方とも、中世軍事建築の見事な例だという。ツェーシス城のこの碑文は、まもなく一般にも公開される予定だ。

References:eng / ancient-origins

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この記事へのコメント 8件

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  1. チュートン騎士団が駐屯してても負けました<-百点

    • -6
  2. なんかこのお城、ナインスゲートに出てきた最後の場所みたいなロケーションに似てるな

    • 評価
  3. せやから、チュートン騎士団が駐屯してても負けたっちゅうとんのや

    • -4
  4. リヴォニア帯剣騎士団…うっ、名前を読んだだけで封印されし我が黒歴史が疼く…

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