歴史上、最も悪名高い世界10の人質事件

2015年01月20日 ι コメント(-) ι 知る ι 歴史・文化 ι #

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 交渉を有利にするために犯人が人の身柄を拘束する ”人質” をとる行為は昔から世界中のいたるところで行われている。国家間で人質をとることは、かなり長い間容認されてきた。古代や中世では他国と条約や合意を結ぶときに互いに相手に裏切られないための手段として使われてきた。重要人物の子弟なども含め、ローマ帝国時代にも属州の忠誠心を確実なものにするためにしばしば行われていた。

 しかし、18世紀には、国同士の政治的な取引に人質を使うことは、めったになくなってきた。1949年、ジュネーブ条約で国際法のもとでは人質は戦争犯罪だと正式に定めた。

 今日では、人質をとるのは犯罪者や情緒不安定な個人、もしくは政治的メッセージを発したいテロリストグループに限られている。

 人質をとればかなりの注目が集まり、身代金をとれる可能性があるため、こうした事件は定期的に発生する。イスラム国のようなグループは、人質事件を起こしては自分たちの軍事活動資金を調達してきた。何十年にも渡って、欧米列強の中東での軍事活動に抵抗してきたグループも、人質という手段に訴えてきた。これまで起こった最悪の人質事件をあげてみよう。

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10. オクトーバー・クライシス (カナダ、1970年)

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 1970年10月、過激な分離主義者グループ、ケベック解放戦線(FLQ)による2件の政府要人拉致事件に対し、カナダ政府は戦時措置法を発動した。10月5日と10日に、イギリスの上級貿易委員ジェイムズ・クロスと、ケベック州の労働大臣のピエール・ラポルトがそれぞれ拉致された。

 FLQの狙いは、テロ行為の罪で有罪判決を受けている仲間のテロリストたちの解放交渉だった。翌週、空港の駐車場の車の中からラポルトの遺体が発見された。クロスは、誘拐犯をカナダから追放するという交渉の末、12月始めに解放された。


9. ミュンヘンオリンピック事件(ドイツ、1972年)

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 1972年9月、ミュンヘンオリンピックの最中、パレスチナ武装組織グループがイスラエルのオリンピック選手11名を人質にとった。武装グループは早朝に襲撃をかけ、まだ眠っていた選手やコーチを捕えた。2人の選手は抵抗しようとして、部屋で殺された。

 交渉で、武装グループはパレスチナ人とドイツ人の囚人の開放を要求し、近くの飛行場で引き渡しすることに合意。西ドイツ当局はそこで密かに9人の人質を助け出す計画だったが、失敗に終わり、銃撃戦の結果、人質全員が射殺された。この事件の死亡者は全部で17名した。


8. テヘラン アメリカ大使館人質事件(イラン、1979年)

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 長期戦になった人質事件のひとつ。1979年11月4日、イランはテヘランのアメリカ大使館で、職員や家族など合わせて52人が一年以上に渡って人質となった。この年の始めの王政を一掃したイラン革命の結果、国王がアメリカに逃げたことからこの大使館占拠は起こった。アメリカ政府は人質の救出を模索したが、1980年4月の作戦は失敗に終わり、2機の航空機の破壊、8人の武装兵士とひとりのイラン人市民の死を招いた。

 この人質事件は、イラン・イラク戦争の勃発によって、イランがアメリカと話し合う余地ができ、終息に向かった。アルジェリアを仲介として交渉が行われ、1981年1月についに合意が交わされて人質は解放された。この事件は1979年以、アメリカがイランと相互関係を断つことを決める大きな要因になっている。


7. レバノン危機(レバノン)

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 レバノンの人質事件は10年近く続いた。この間、一般の西洋人が繰り返し拉致された。96人の被害者たちはその間ずっと人質になっていたわけではなく、たいてい拉致後数ヶ月で解放された。拉致の原因は、当時レバノンの内戦を戦っていて、イランと密接につながっていた過激派組織ヒズボラとの関連だと言われている。

 監禁中に人質8名がおもに健康上の問題から死亡したが、一連の拉致はイラン・イラク戦争の終結とソ連の崩壊によって終わった。ソ連に援助を頼っていたシリアとイランは、1990年代始めには外国の投資を必死で求めるようになり、そのためヒズボラに西洋人の拉致をやめるよう圧力をかける結果になったのだ。


6. リビア外国人拉致事件(リビア、1984年)

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 1984年4月17日、カダフィ率いるリビア政府によって、4人のイギリス人男性が拉致された。リビア側は、マンチェスターやロンドンで起きた爆破事件の犯人としてイギリス側に捕えられている4人のリビア人との交換を要求してきた。ロンドンのリビア大使館で警官のイヴォンヌ・フレッチャーが撃たれて死んでから、両国の関係はすでに緊迫していた。

 1985年の始めにイギリス本国へ戻す決定がなされたが、リビア側は解放にあたって、イギリス政府に条件をつきつけてきた。その中には、イギリスに収監されているリビア人囚人たちの解放手続きを進めること、イギリス国内での反リビアの宣伝活動をやめることなどが含まれていた。


5. モスクワ劇場占拠事件(ロシア、2002年)

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 2002年10月23日、モスクワの劇場でチェチェンの武装勢力が850人の人質をとって立てこもった。爆弾を身に着け、観客席の中心に大きな爆破装置を仕掛けた犯人たちは、人質の解放と引き換えに、第二次チェチェン紛争からロシア軍の撤退を要求した。劇場は2日半包囲され、その間に人質の女性ふたりが殺された。

 ロシアの特殊部隊が犯人を無力化するために劇場内に毒ガスを放ったが、それが裏目に出て人質130人が死に、数百人が負傷した。その後、特殊部隊が建物内に突入し、人質犯は全員死んだ。


4. ベスラン学校占拠事件(ロシア、2004年)

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 2004年9月1日、イスラム武装集団がロシアの北オセチア共和国ベスラン市の公立学校を襲撃し、子どもたちなど1100人以上を人質にとった。犯人たちはチェチェンからのロシア軍の撤退を要求した。クレムリンはテロリストとの交渉を一切拒絶し、包囲3日目に治安部隊が学校に突入。子供186人を含む少なくとも385人が殺され、700人以上が負傷した。

 後日、人質や犠牲者の数を少なく発表したり、犯人の要求はなかったなどと主張したプーチン政権は、事件を軽くみたことを激しく非難された。


3. イスラエル兵士人質事件(パレスチナ、2006年)


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 2011年10月18日、イスラエル兵士のギルアド・シャリートは、ハマスによる5年の監禁ののち、捕虜交換で解放された。シャリートは、2006年6月、ガザの境界線でハマスの襲撃を受けて囚われの身になった。

 この拉致事件によって、イスラエル、パレスチナ、レバノンのヒズボラとの軋轢がエスカレートし、2006年夏にはイスラエルとレバノンの戦争にまで発展した。シャリートの解放に向けて運動が起こり、多くの嘆願書が集められた。ついに1027人のパレスチナ人囚人の解放と引き換えに、シャリートは自由になった。


2. タリバンの米軍兵士人質事件(アフガニスタン、2009年)

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 2009年6月30日、米軍兵士、ボウ・バーグダールはアフガニスタンに駐留していた米軍の部隊を自ら出てすぐ、タリバンに捕えられた。2011年8月に一度逃げ出そうとしたようだが、2014年5月末に囚人交換と引き換えに自由になるまで、5年間拉致されていた。2009年に部隊を立ち去る前に家族に何度かメールを送っていて、その中で彼は戦争の残虐さに幻滅し、もうこれ以上部隊にいたくないともらしていたという


1. シドニー カフェ立てこもり事件(オーストラリア、2014年)

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 2014年12月15日、シドニーのビジネス街にあるカフェに、イスラムの聖職者シャイフを名乗るハロン・モニスという男が押し入り、17人を人質に立てこもった。最初、メディアはイスラム国支援のテロと考えたが、すぐに深刻なトラブルを抱えたモニス単独の犯行と判明した。

 モニスはさまざまな罪で長年警察の監視を受けていて、事件当時は保釈中だった。人質が監禁されてから16時間後の翌16日、警官隊がカフェに突入した。この際、ふたりの人質が死んだ。

via:therichest・原文翻訳:konohazuku


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